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執筆者の写真島先 克臣

キキを葬って思ったこと(改訂版)

更新日:4月25日



2022年8月3日


 昨夜、15歳となっていたキキという名前の犬が息を引き取り、今朝早く、庭に葬りました。2004年にフィリピンから帰国して3年ほど経ってから飼い始めた犬で、私たちの生活の大きな変化によくついてきてくれました。

 大きな穴を掘り、キキを横たえました。そして、土をかぶせながら思い起こしたのは、次のみことばです。

あなたが…彼ら(動物たち)の息を取り去られると

彼らは息絶えて自分のちりに帰ります。(詩篇104:29)


 今日はこのみ言葉が非常にリアルに感じられました。キキはさほど時間を経ずして土になります。


 聖書によれば、人間も死ねば同じ道をたどり、土に帰っていきます(ヨブ34:14-15)。土葬をした場合、数十年後には、そこを掘っても何もでてこないことでしょう。古代イスラエルの人々にとって「人は死ぬと土に帰る」ということは日常生活の中の当たり前のリアリティでした。




 私たち日本人の多くは、死んでも魂は生き続けると感じていることでしょう。「千の風」にあるように、多くの若い方々もそう感じているのかもしれません。それは遺族の方々にとっての慰めですし、ある意味では自分が死に直面するときの備えになるのかもしれません。


 キリスト教信仰でも同じです。クリスチャンの多くは、死んだら魂は生き続けて、天国か天のパラダイスに行くと考えていて、それは、多くの方々の励ましになってきました。


 輪廻においても、浄土宗においても、先祖を供養することにおいても、イスラム教でも、実に多くの方々が、世界中で、「死者は消えてなくなったのではない、何かしらの形で生き続けている」と思っているのです。


 私はこれはとても大切なことではないかと思うようになりました。


 キキについても、「十分に世話をできなかった、ごめんね」、あるいは「あの頃は楽しかった」と、キキに語るように呟く時があります。

 私の祖父は、大型聖書がすっかり汚れるほどの長い求道生活の後、ついに、主イエスを信じ、私が良い牧師になるようにと祈りつつ亡くなりました。東京で神学生であった私は、祖父の闘病中にほとんど訪ねて行けず、亡くなった後、長い間それを後悔していました。今でも、私のことを思ってくれていた祖父に話しかけたくなります。

 義父は、将校として南京で戦い台湾で終戦を迎えて引き上げてきました。息子をガンで失ってからは、反公害、反原発運動に身を投じ、老後は伊豆の山奥で自給自足を目指しました。国内外の政治には敏感で、社会への批判は鋭いものでした。ガンになりましたが、治療を拒否して痛みに耐え、水と食を絶って亡くなっていきました。私はふと、今義父が生きていたら、今の日本と世界の状況について何を語るだろうかと聞きたくなります。


 唯物論では、人は死んだら存在は無くなります。私が祖父に語りかけたくなっても、日本人が先祖を供養しても、クリスチャンが魂は天国に行くと信じても、それは、全て根拠のない願望でしかありません。


 しかし、本当にそうでしょうか。


*ここより改訂作業中



聖書も同じだと思うようになりました。しかし、聖書のアプローチは少し角度が違うようです。クリスチャンが確信をもって言えることがあります。それは、終わりの日に、肉体をもってよみがえることです。それは、主イエスのよみがえりによって確かなものとなりました。


 イエスのよみがえりは実験室で繰り返すような証明はできませんが、多くの目撃者が証言しているので、歴史研究や、犯罪を証明する方法に似た方法で、状況証拠によって、ほぼ間違いなく歴史上起こったこと、と言うことができます。イエスの復活は、単なる願望ではありません。そして、初穂であるイエスに続く私たちの復活も、単なる願望ではないのです。


 キキは土に帰っていきます。私たちも死後、確かに一旦は土に帰ります。しかし、それで終わりではありません。「いかにして」という疑問に聖書は答えていないのですが、主イエスの来臨のときに、私たちもラザロや主イエスのように墓から出てきます(ヨハ5:28-29)。これは単なる願望ではなく、キリスト教信仰の真髄、主イエスの復活という歴史的な出来事に基づく、確かなことなのです。



 



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