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国籍は天に、天の故郷、父の家には

更新日:2022年10月11日



はじめに

 「私たちの最終的な救いの完成の場は天である」ということを示していると考えらえてきた有名な箇所がいくつかあります。本稿では、そのうち、「私たちの国籍は天にあります」(ピリ3:20)、「天の故郷」(ヘブ11:16)、そして「私の父の家には住む所がたくさんあります」(ヨハ14:2)という三つの箇所を検討していきます。


I 「国籍は天にあります」

 ピリピ3:20には「私たちの国籍は天にあります」とあります。そのため、ここだけを見ると、私たちは天に帰ることを待ち望むのだと考えてしまいます。ではこの節の後半と次の節には何と書いてあるでしょうか。


私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。


 私たちが待ち望んでいるのは、私たちが天に行くことではなく、天から主イエスが来られることです。そのとき、私たちは霊魂になるのではなく、復活されたイエスの体と同じ姿に変えていただくのです。


ローマ国籍とその意味

 この「国籍」と訳された言葉は、市民権を意味します[1]。この言葉を聞くと当時のローマの植民都市であったピリピのクリスチャンは、ローマ市民権を思い浮かべたはずです。パウロ自身もそのピリピで、自分がローマ市民権を持っていることを主張しました(使16:37)。また、3:20にある「主」と「救い主」という言葉は、しばしばローマ皇帝を指しました。ローマ皇帝は帝国の主権者として、また、周辺の異教徒から帝国を守り国内の内戦を平定した救い主[2]として讃えられていたのです。植民都市というものは、ローマが支配するようになった地域に、引退したローマ兵を住みつかせてその地域をローマ化しようとしたものでした。元ローマ兵は、自分の市民権のあるローマに戻ろうとしたのではありません。皇帝の属州巡幸(じゅんこう)の際や、万が一、周辺の民族に襲われたりした時に、主であり救い主であるローマ皇帝が来てくれるのを期待していたのです。


国籍は天に

 ですから、パウロは、ちょうどローマから主である皇帝が救い主としてピリピに来るのを待つように、天から主であるイエスが救い主として地上に来てくださるのを待ち望むと言っているのです。


まとめ

 私たちの切なる願いは天に行くことではありません。天から主がこの地上に来て、その時生きているクリスチャンの体が主と同じ体に変えられ、ついに神の国を全地に完成してくださることを切に願っているのです。



II 「天の故郷」

 『ヘブル人への手紙』の著者は、クリスチャンが


憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。


と述べています(ヘブ11:16)。この都とは、「生ける神の都である天上エルサレム」だと、ヘブル書の著者は語ります(ヘブ12:22)。では、著者はここで、死後、天へ行くことを待ち望んでいるのでしょうか。

 ヘブル人への手紙では、天と地の対比が頻繁になされているため、「現在と終末」という対比を見落としがちかもしれません。しかし、実はヘブル書は、2:5の「来るべき世」、6:5の「来るべき世」など、終末を指す言葉が頻繁に使われているように、この書において最初から最後まで貫かれているのは終末におけるさばきと救いです。


    A 終末のさばき

 ヘブル人への手紙の著者は、「死者の復活と永遠のさばきなど、基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう」(6:2)と述べています。つまり、この書は、終末において死者の復活があること、そのとき、永遠のさばきがくだされることを基礎的なこととして述べています。

 ヘブル書には「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(9:27)という有名な言葉があり、死後すぐにさばきがあるような印象が与えますが、それに続く28節に注意を払う必要があります。


そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。(ヘブ9:27-28)


ギャレット・リー・コッカリルは、この部分を次のように注解しています。


このさばきは、クリスチャンにとって基礎的なことだった(6:2)。27節は、28節におけるキリストの再臨と並行関係にあるので、死後のさばきとは、12:26-29で描かれている最後の審判を指すのであろう。[3]


つまり、27節は、次の28節に対応していて、さばきも救いも、再臨におけるさばきと救いを指しているのです。ですから、10章では、「その日が近づいている」(10:25)と述べ、その直後に終末におけるさばきを以下のように告げて警告します。


ただ、さばきと、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を、恐れながら待つしかありません。(ヘブ10:27)


ヘブル書のさばきは、死の直後のさばきではなく、将来の終末におけるさばきなのです。


   B 終末の救い

 さばきが終末であるように、救いも終末です。


ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない。…」10:35-37


キリストの再臨はいたずらに遅れているのではない。必ず来たるべき方が来られる。これを確信して忍耐しよう、と著者はこの10章で呼びかけます。


 その後、著者は、11章でアブラハムやモーセなど信仰による歩みをした先達たちの例をあげ、「これらの人たちはみな、その信仰によって称賛されましたが、約束されたものを手に入れることはありませんでした」(11:39)と語り、約束されたものを手に入れるのは将来であることを告げます。


 そして12章では、約束されたものが近づいているのだと、近づいているものを列挙します(12:22-24)。そのリストには、イエスの再臨によってもたらされるものが挙げられいます。そこに含まれているのが「生ける神の都である天上にエルサレム」、そして神ご自身とイエスです。この終末的な救いの完成が「揺り動かされない御国」(12:28)であると述べ、この「来るべき都」(13:14)を求めつつ歩もうと語って、書を閉じています。


まとめ

 以上のように、ヘブル書は、あくまでも再臨のときの世界の完成を指差しています。上記の「来るべき都」とは、黙示録によれば、天から降ってきて地に降り立つ新しいエルサレム、神と子羊がおられる都です(黙21:2-4)。つまり、生ける神の都を受け継ぐのは、今でなく、死後すぐでもなく、再臨のときです。だからこそ、『ヘブル人への手紙』は、その日を待ち望んで、忍耐するようにと私たちを励ましているのです。しかもそれは天上の都ではなく、天から降ってきて地上に降り立つ都であることに改めて注意を向けましょう。



III 「私の父の家には住む所がたくさんあります」

 ヨハネの福音書では、イエスは「私の父の家には住む所がたくさんあります」(ヨハ14:2)と語った後に、


わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。(ヨハ14:3)


と述べています。

 ここで、鍵となるのは「また来て」という言葉で、それはいつのことを指すのかが解釈上の問題となります。一般的には個人が死ぬ時と思われていますが、ゲイル・オデイ[4]、ジョージ・ビーズリー:マーレイ[5]、ドナルド・ガスリー[6]といった主要な注解書の著者はこぞって終末であると述べます。ゲイル・オデイは次のようにも述べています。


「また来て」という表現はイエスの再臨という初期のキリスト者の伝統的な待望を想起させるもので、これらの節の終末論的傾向を示している。ここでのイエスの約束を、信者が死んだ時に信者個人のところに来るという意味と捉えることは、この約束の終末論的意義を取り違えることになる。[7]


 イエスがまた来られる日に、主は私たちを、肉体をもつものとしてよみがえらせて下さいます。その時に私たちが迎え入れられる「父の家」とは、天上ではなく、地上に降りたった聖なる都のことでありましょう(黙21、22章)。


IV まとめ

 天国を志向していると思われてきた箇所は、実はそうではありませんでした。それとは逆に、これらの箇所は、私たちの主イエス・キリストがもう一度地上に来て、地上で救いを完成してくださることを切に願うものだったのです。

[1] F.F. Bruce, ‘Citizenship’, The Anchor Yale Bible Dictionary (Doubleday, 1992). [2] Morna D. Hooker, Ephesians, New Interpreter’s Bible vol.11 (2000, Abingdon Press), 535. [3] Gareth Lee Cockerill, The Epistle to the Hebrews, New International Commentary on the New Testament, Eerdmans, 2012, 425. [4] Gail R. O’day, John, New Interpreter’s Bible vol. 9 (Abingdon Press, 1995), 741. [5] George R. Beasley-murray, John, Word Biblical Commentary vol. 36 (Thomas Nelson, 2006), 250. [6] Donald Guthrie, New Bible Commentary (University and Colleges Christian Fellowship, 1953), 1054. [7] 前掲書.

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