
ファミリーミニストリープロジェクトのイベントにて講演 2025/1/17(金)19:30 zoomにて
はじめに
今から40年以上前、子育てがはじまるころでした。私はある本を読んで、「これは聖書的なしつけだ」と思い、体罰を子どもに与えました。それが功を奏してか、家庭でも教会堂でも秩序ある子育てができて、それを誇らしく思ってきました。
しかし、ごく最近になって、子どもの心にそれが傷となり、怒りが心の深いところにある。そのため、自身の子育てで苦闘している、ということを知りました。今は本当に申し訳ないと思っています。別のあり方があったはずだと。
それから私は、いったい自分の何が問題だったのだろうと、悩み、思い巡らしています。本日はそれを三点お分ちしたいと思います。
I 人間と罪の解決
第一は人間についての考え方です。その本によれば、子どもは罪人だから、その罪から解放するためには鞭が必要だ、ということでした。
しかし、考えてみますと、信仰者ではない多くの方々が、体罰を受けなくても立派に成長し、自分を犠牲にして他者のために生き、社会に大きな貢献をされています。
しかも、「罪を解決するには、鞭、つまり、力によるコントロールが必要だ」というのですが、その解決方法はイエス様が示した罪の解決方法とは正反対に見えます。
今は思います。神に似せて造られた良き人間性が罪によって歪められたにしても失われたわけではない、また、イエス様がとられた罪に対する解決方法は力の支配ではなかったので、別の工夫があり得たのではないか、と。
二、三歳の子どもを思い出してください。あんなに小さくても、親と楽しく遊びたいと思っています。親を喜ばせたいと思っている。親に愛されたいだけでなく、親を愛したいとさえ思っています。そして、内側からどんどん成長していく。親がしつけなければだめになるとか、親が子を育ててやるのだ、と思う以前に、子どもが人として急成長していく。その姿をまず楽しみ、喜ぶ、私はそんな親になりたかった、と今は思います。
II 聖書とはそもそも何なのか
私の第二の問題は、聖書観です。私がその本をスッと受け入れた理由は、私が聖書のことを『ルールブック』だと思っていたからです。
A. 聖書は「ルールブック」?

聖書は「信仰と生活の誤りなき規範」なので、バスケットボールの競技規則集のように、「聖書のすべての命令に従わなければ」と考える。それが「ルールブック型」の聖書観です。全く正しいように聞こえます。しかし実際は問題があるようです。
1 実際は選択的で、選択基準が明らかではない
一つの問題は、私たちは聖書の一部だけを選んで従っていて、それを選ぶ基準が明らかではない、という点です。
クリスチャンの多くは、十戒はだれでも守るべき教えだと考えます。しかし十戒の次の章には、「自分の父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない。」とあります。現代のクリスチャンはその命令には従いません。ある人は箴言(23:13)に基づいて体罰を与えるのですが、申命記にある「強情で親に逆らい…放蕩で大酒飲み」の息子を石打ちにせよ(21:20-21)という命令には従いません。
ではどの教えに従い、どの命令に従わなくて良いでしょうか。その基準は人によって違い、万人に共通のものはないようです。そのため、教派により、個人によって守るべき教えに違いがでてきます。例えば、足を洗う儀式をするかしないか、女性が教会で教えることはどうなのか、その他多くの点で違いがあります。つまり私たちは、聖書の一部だけを選んで従っていて、それを選ぶ基準が人それぞれなのです。
2 復古調となり、現代の課題に対応できない
第二の問題点。「ルールブック型」では、古代人に語られたことの中に普遍的に守るべき教えがあると考えるので、絶えず古代の文化を基準にします。古代オリエントでは、奴隷制、一夫多妻、家父長制などが前提でした。そこであるクリスチャンは「奴隷制は聖書的だ」と主張し、アメリカでは内戦にまで至りました。わずか160年前のことです。現代でも保守的なキリスト教の強い地域では、女性の地位が低いのです。
そして、もちろん「ルールブック型」では、原子力、環境危機、グローバル資本主義など、現代の問題になかなか対応できません。
つまり「ルールブック型」では、キリスト教倫理が復古調になり、かつ、現代の課題に対応しきれないのです。
B. 矢印型
では聖書をどのように捉え直したらよいのでしょう。一つ提案があります。「矢印型」です。

聖書は「矢印のように世界の完成を指し示す歴史」と見る見方です。本日は時間が限られているのでどのような歴史なのか一言で申し上げます。詳しくは事前にお配りした私の記事(福音の全体像)、あるいは、聖書を読む会発行の小冊子「神のご計画」をお読みください。
1 世界の完成を指し示す歴史
この歴史の大切な出発点は、「神様が創造した天地万物は非常によかった」というものです。世界は平和と豊かさ、正義と愛に満ちたものとして発展していくはずでした。
ところが人が神に背いたために様相はすっかり変わります。
しかし神様は、最初のご計画を諦めるお方ではありません。ノア、イスラエル、ついには、神のひとり子により、教会を通して世界を回復し始めました。
そしてこの時代の終わりには再臨によって完成させます。その時、全地はイエス様の愛と憐れみで満ちるのです。聖書をとおして変わらない神の御心は、全地がイエス様の愛と憐れみで満ちることです。
このように「世界の良き創造から始まり、矢印のようにその世界の完成を指し示す歴史」、それが聖書だと私は思うのです。
2 聖書の倫理は時代・地域・文化を配慮した発展途上の一適用
もしそうであるならば、聖書に描かれている倫理はどう考えたらよいのでしょう。それは、それぞれの時代と地域、そして文化を配慮した適用の一つ、しかも発展途上の適用の一つと考えられると思います。
例えばイエスさまは「一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい」とおっしゃいました。ローマ帝国の属国であったユダヤではローマ軍が駐屯していて徴用があったからです。しかし、同じ1世紀でも、帝都ローマにいたローマ市民にはそのようなものはないので、パウロは一言も言及しません。代わりにパウロはコリントで偶像に献げた肉について教えますが、パレスチナのユダヤ人社会ではそのようなことはあり得ないので、福音書では言及されません。また、パウロより千五百年も前の農村共同体であるイスラエルでは、牛やろばが水溜に落ちた場合の指示がありますが(出21:33)、都市生活者宛に書いたパウロ書簡にはありません。聖書の教えは地域、時代、文化を考慮した一つの適用なのです。
しかも、聖書の倫理は変化・発展しています。モーセの時代は簡単に妻と離縁できましたが、それは民が頑なだったためだ、とイエス様は解説します(マタ19:8)。「目には目を」とモーセは言いますが、イエス様は「右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」(マタ5:39)と語ります。
人々が住んでいた時代、地域、そして文化が違うので、適用が違うのはあたりまえです。しかも、神様は、少しずつより良い方向に社会を導こうとされているのです。
3 イエスさまの愛が全地に満ちる完成した地上の姿を志向して歩む
ですから私たちは、古代人のために語られた発展途上の一つの適用を見てそれをそのまま守ろうとはしません。その適用の背後にある神のみこころ、聖書が明確に示している方向性、イエスさまの愛が全地に満ちるという変わらないヴィジョン、を捉え、それを自分たちの時代、地域、文化に適用していく、それがクリスチャンの歩みではないかと思うのです。
III クリスチャンの歩み
では、どのように自分たちに適用するのでしょう。これが私の申し上げたい第三のポイント、私の第三の間違いです。
A. 私の誤り
1 神の愛が十分に分からず
今でも不十分ですが、若い時の自分を振り返ると、神様の愛を十分に捉えていなかったと思います。そのため、私は神様に喜ばれようと一生懸命に集会出席、献金、奉仕をしていました。その延長上で牧師となり、宣教師にさえなりました。自分が正しくありたい、聖書的でありたい、神様に喜ばれたい、人に認められたい、という思いに私は駆られていたように思えます。子育てもその延長だったと思うのです。
2 自分のしつけを第一にして愛と憐れみに欠けていた
本来私は息子を喜び、息子を慈しみ、息子の変化、成長に驚き、それを楽しみ、息子らしさを伸ばしてやろうと思う、それが第一に来るべきでした。しかし私は、しつけにおける自分の正しさ、自分が聖書的な躾をするのだという思い、自分が望む枠組みに子どもを押し込めること、それが第一となり、最も大切な子どもへの慈しみが、2番目3番目になったのです。
3 それはパリサイ人と同じ
当時の私の信仰のあり方は、ミント、イノンド、クミンといったハーブさえも捧げて、「自分は正しいのだ」と思わなければ安心できないパリサイ人、自分は聖書的だと思わなければ自分を支えられないパリサイ人、その結果、律法の中心であった愛と憐れみを忘れたパリサイ人と、同じだったと思います。
4 勧め
みなさんには、私の轍(てつ)を踏んでほしくはありません。みなさんが正しくなくても、聖書的でなくても、神様はあなたを愛し喜んでいる。驚くべきことです。教会の運営や学業、仕事や収入で成功していなくても、神様はあなたを喜んでいる。あなたがクリスチャンらしくなくても、教職者夫妻らしくなくても、立派な神学を体得していなくても、神様はあなたを愛し、喜んでくださっている。みなさんには、それを体験していただきたいのです。
すると自分が築き上げてきたキリスト教が崩れていくかもしれません。しかしそれを通して自由になるのです。
その結果、次第に目の前の一人の人の苦しみが想像できるようになるかもしれません。目の前にいる伴侶の痛みに共感できるようにゆっくりと変えられていく可能性がでてきます。目の前にいる我が子の求めに気づき、応えられるようになっていくのではないでしょうか。
B. クリスチャンの歩みの原則:ロマ12:1-2
実は、パウロは、私が今、申し上げた体験をロマ書12:1-2で述べているように思えます。私はこの箇所がクリスチャンの日々の歩みを考える上で最も大切で、鍵となる箇所だと考えています。
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
ここに四つの段階があるように思えます。
1 神の愛を受けて
パウロはロマ書11章まで、神のあふれるばかりの愛を切々と、ときには高らかに、あるときは絶叫するように述べてきました。12章の冒頭で、それまで述べてきた神の愛を受けて「ですから」と言います。つまり、神の愛を本当に受け止めることが第一歩となります。
2 神を第一にし
次に、その愛に応えて自分のすべてを主に献げるように、自分ではなく神を第一とするようにとパウロは1節で勧めます。
3 愛を基準に
第三。では自分ではなく神を第一にするとどうなるのでしょう。2節で「心」と訳されているギリシア語は、考え方や価値観、判断基準のことです。それを新たにする、つまり、私たちの価値観と判断基準を、「全地がイエスの愛で満ちる」という先ほど学んだ聖書のヴィジョンに近づけることだ、と私は考えています。
子育てにおいては、しつけをどうするかを考えるより以前に、伴侶と子どもをひたすら愛おしく思うこと、そこに価値を置くことになります。
4 自ら考え判断する
そうすると、その結果として、現代の子育てにおいて、また夫婦関係において「何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分ける」ことができるようになる、とパウロは言うのです。
「見分ける」という言葉に注目してください。神様は私たちをロボットとして造られたのではありません。知性も判断力も、主に似た者として造られました。ですから、愛を基準にして見分ける、自ら判断していく、それが期待されているのです。
5 まとめ
以上のことを一言でまとめるならば、
1.神様の愛を受けて、2.神様を第一にし、3.愛を基準にて、4.自ら考え判断する
というものです。
C. 判断する上の4つの助け
ここで、本日の講演は終わってもいいぐらいなのですが、最後に、自分で判断していく上で助けになるのでは、と私が考える点を4つ申し上げて終わります。
1 現代を、そして一人一人を見つめて判断する
第一は、現代を、そして一人一人を見つめつつ判断するということです。パウロは、一世紀のローマ社会を知っていました。だからこそ、ふさわしいサジェスチョンを12章以降で与えることができたのです。
子育てにおいても50年前と今は状況が違います。同じ世代でもカップルにより違います。同じ親から生まれた子どもさえ一人一人違います。
成人した娘がある時、ふと妻に漏らしました。「私はお母さんにハグして欲しかった」と。男の子たちはそう感じなかったようです。確かに娘は小さい時そう訴えました。今思えば、その時、娘の必要に応えるべきだったと思います。
2 科学的知見や一般の方々から学んで判断する
第二は、科学的知見や一般の方々から学んで判断することです。
アメリカで行われたリサーチでは、ある特定の年齢層の人々に適応障害や犯罪が多いことがわかってきました。その父親たちを調べると、多くがベトナム戦争の帰還兵でした。戦争のトラウマが解決されないまま子育てに入った場合、父親の愛情不足や、暴力という形に現れ、それが子どもの成長に明らかに影響を与えたのです。
実は私の体罰の問題も、その背景に、私自身が親の愛を十分に受けて育っていなかった、ということがあると思います。
もちろん科学的リサーチのすべてが正しいわけではなく、科学的と言われていてもバイアスがかかっていることは確かにあります。しかしながら、その成果も確実にあるのです。
同様に、クリスチャンでない方々は様々な分野ですばらしい貢献をしておられます。それらの先輩から学ばずして、クリスチャンとして成熟していくことは難しいように思います。
科学や医学の発達、一般の方々の偉業の背後には、世界を愛し・世界を保とうとされているご聖霊の働きがある、と私は信じています。
3 仲間と一緒に考え判断する
第三。一緒に考える仲間がいると助けになると思います。このようなセミナーやSNSをとおし、あるいは地方教会で、同じように悩んでいる方々と繋がって一緒に考えることができたらいいのでは、と思います。クリスチャンでなくても、もちろんよいのです。
今日の集いにはカウンセラーや子育ての専門家もおられます。ぜひ、そのような方々の助けを得てください。特にお子さんに問題行動があると思われる場合や、親自身が心に傷をもっていると気づいた時、あるいは夫婦関係に問題があるのならば、クリスチャン・一般、を問わず、早めに色々な助けを受けていただきたいと思います。孤独はつらいことです。
4 主の祈りを唱えつつ判断する
第四、最後は主の祈りを唱えつつ判断することです。特にこの祈りです。
御国が来ますように。 みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
なぜ祈るのでしょうか。それは、ご聖霊こそが、ふさわしい判断を下す助けをしてくださるからです。
IV 終わりに イエス様の愛が全地に満ちるまで
まとめます。
1 吟味したうえで
私は今日申し上げたことが唯一正しいものとは思っていません。私が悩み、思い巡らしている途上のものを皆さんにお分ちしたにすぎません。ですからみなさんは今日聞いた内容をよく吟味した上で試していただきたいと思います。
2 赦し
みなさんの中に、いきすぎた体罰で子供の心を傷つけたと思ってらっしゃる方がおられるでしょうか。そうならば、申し上げます。イエス様は、そんなあなたを赦し、励まし、生かすために、十字架にかかり、よみがえり、今もあなたのそばにいてくださっています。
あなたの傷ついたお子さんは、今は教会から離れ、信仰から離れ、あるいは、あなたと縁を切っているかもしれません。しかし覚えておいてください。子供はどこまでも親の愛を求めています。親を赦したいと思っています。そしてイエス様はそのお子さんと共にいてくださる。そう信じましょう。
3 最後のお願い
最後にここにおられるみなさんにお願いがあります。本日はイエス様の愛が、子育ての場に満ちることを願ってお話ししました。しかし、私たちが召されているのはそこにとどまりません。教会に、ご近所に、地域社会に、職場に、日本に、世界に、そして地球環境全体にイエス様の愛が満ちること、それが神様の願い、救いのご計画だと私は信じています。矢印である聖書が指し示している通りです。ですからみなさんにも、この方向に向かって歩んでいっていただきたいのです。
ご清聴ありがとうございました。
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