聖書シリーズ(3)−聖書と神学
- 島先 克臣
- 5月3日
- 読了時間: 11分
更新日:9月21日

2025年4月27日の礼拝説教より。
この数年、私はキリスト教信仰の多様性ということを思い巡らしています。World Christian Encyclopedia,世界キリスト教百科事典によれば、プロテストの教派は2020年時点、45,000から47,000あると言われています。今でも増え続けていますし、今後もそうでしょう。
プロテスタントの教派が増えてきたのは、解釈の違いが主な原因ですが、それだけではありません。解釈が同じでも地域や人種、また文化の違いのために組織や礼拝の形態の違いが生じた結果、独立したグループも多くあります。ですから教派の多さは必ずしも否定する必要はないのですが、解釈の違いで互いに争う必要はないと思うのです。
今日は、なぜこれほど解釈の違いが出てきたのかという理由を探り、どこで一致できるのかということに関して私個人の考えをお分ちしたいと思います。
これはそもそも聖書とは何なのか、信仰や神学に関してどのように聖書を読んだら良いのかという私自身が持つ疑問に対する私なりの一つの答えでもあり、途上にある試論であって、みなさんに共に考えていただければと願っています。ですから今日のお話の中に間違いや誤解もあるかもしれません。その場合、ご指摘いただければ幸いです。
I 新約聖書の幅
なぜ、プロテスタントではこれほど解釈が分かれ、教派が無数にできたのでしょうか。私は「新約聖書の証言が多様である」ということが理由の一つだと思います。新約聖書自体がさまざまな解釈を許容しているのです。
A 中間状態
例えば典型的なのは、クリスチャンが亡くなってから復活までの間、その人はどこでどのようにしているか、いわゆる中間状態に関することです。中間状態には最低でも三つの説があります。1. 故人は地下で眠っている、2. 魂だけ天にいる、3. 一時的に存在が解消されている、というもので、どれが正しいかは、聖書からは断言できません。それぞれの説を支持しているような文言があるからです。
B ゲヘナ
次は、ゲヘナです。以前は地獄と言われていました。ゲヘナに関しても解釈の幅があります。例えば、1. それは永遠に意識があって苦しむ場である、2. ゲヘナは善行を励ますレトリックにすぎない、3. ゲヘナは旧約聖書のように、死んだ者が辱めを受ける場で、本人に意識はない、4. ただ単に死後消滅するだけである、など、いくつにも説が分かれています。新約聖書自体が、そのように解釈が分かれることを許容しているのです。
C 復活の描写
福音書がイエス様の復活を語るときも、証言している弟子たちは色々な角度から思い出して書いているので、復活を語る聖書記事も実に多面的です。
D 終末論
また、千年王国、携挙、現代のイスラエル国家に関することなど、終末論も実にさまざまです。
E その他
その他、足を洗う儀式をすべきか、洗礼の形態はどれなのか、女性の教職は認められるのか、女性のかぶりものはどうするか、教会の組織と形態はどうあるべきか、など、解釈が分かれる点は何十とあります。それ以外の個々の聖書箇所の解釈もさまざまなので、解釈の幅がどこまで広がるかわからないほどです。
F まとめ
これらは何を示しているのでしょうか。それは新約聖書そのものが、解釈が分かれる幅の広さを持っているということなのです。
II 共通基盤 イエスはキリスト
では、新約聖書に関しては、それぞれが勝手に解釈し、ばらばらでもよいということでしょうか。何の共通性がなくてもよいということでしょうか。私はそれも違うと思います。一致すべき信仰理解があります。それは、イエスこそが旧約聖書の預言していたメシア、ギリシア語でキリストであるという点だと考えます。
では、旧約聖書が預言していたメシアとはどのような存在なのでしょうか。残念ながら、その一番の出発点、キリスト教信仰を建物とすれば、その建物の土台部分を、私は教会であまり聞いてことなかったような気がします。今日はそれを確認する時間はありません。私はそれを数ページの文章にまとめて舟の右側に載せましたので、興味あるかたは、「福音の全体像」をお読みください。
A 聖書の救いの約束
さて、今紹介した記事で述べているように、旧約聖書は、将来メシアが来て罪によって歪んだ世界を正すと繰り返し約束してきました。
B イエスこそメシア
1. 使徒たちの使信
では、そのメシアは誰なのか。それはイエスだと宣言したのが使徒たちでした。実際、使徒たちは地中海全域に出て行ってそれを伝えました。「使徒の働き」から五箇所読みます。
・(使徒たちは)毎日、宮や家々でイエスがキリストであると教え、宣べ伝えることをやめなかった。(5:42)
・サウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。(9:22)
・(パウロは)「…私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです」と説明し、また論証した。(17:3)
・パウロはみことばを語ることに専念し、イエスがキリストであることをユダヤ人たちに証しした。(18:5)
・(アポロは)聖書によってイエスがキリストであることを証明し、人々の前で力強くユダヤ人たちを論破した。(18:28)
イエスこそがメシア、キリストである。これが使徒たちの述べ伝えたことでした。つまり、使徒たちと最初期のクリスチャンがはっきりと信じていたのは、「イエスこそが旧約聖書で約束されていたメシア、キリストである」ということだったのです。
2. 福音書
今申し上げていることは福音書を見ても明らかです。
「使徒の働き」が扱う約三十年の歴史の間に、各地でイエス様の言行録のようなものがまとめられていきました。それがのちに福音書になっていくわけです。それぞれの福音書の初めの数章は、イエス様の誕生に焦点をあてて、メシアが誕生したのだということを全面に出して伝えています。それはマタイでは1章から3章、マルコは1章、ルカでは1章と2章、ヨハネでは1章です。もちろん、福音書のその後の部分では、イエス様がいかに旧約聖書のメシア預言を果たしていったかが述べられています。
つまり、当然なのですが、使徒たちが中心になってまとめたであろう福音書を貫いているのは、イエス様こそが旧約聖書の約束したメシアなのだということなのです。
3. 手紙:状況に合わせた適用
では、新約聖書の手紙はどうでしょう。実は、手紙は神学論文ではなく文字通り手紙です。パウロの信仰理解の中心は、イエスこそメシアであるというものですが、その信仰を適用するときに状況によって内容が変化していきました。当然のことですが、手紙というのは、その時代、その地域、その教会の状況に合わせた一つの適用なので、書いた内容はそれぞれ違い、幅があるのです。福音書自体も聴衆に合わせて資料の選び方が違います。
このように新約聖書の中心は一つなのですが、それを当時のさまざま異なる状況に適用させたものなので、非常に幅があるのです。そのことを理解しないと、新約聖書のさまざまな声が矛盾に聞こえて、混乱が生じますし、解釈の違いで衝突してしまうのです。
4. 古代文書
もう一つあります。新約聖書の記述をそのまま21世紀の私たちに向けたものだと考えてはなりません。
平安時代は和歌を添えた手紙を書いたそうです。もし清少納言の書いた手紙があって、それを私たちが読んだとき、清少納言が21世紀の自分に直接宛てて書いたとは思わないでしょう。ところが聖書となると、パウロが1世紀のローマ人に書いたことを直接自分に当てて書いたと錯覚してしまうことがあるかもしれません。それは正しい聖書の読み方とは言えません。
パウロはなぜ当時のローマ人にあの手紙を書いたのか、何が目的だったのか、どのような状況だったのか、をまず探り、そのあとで、私たちが学ぶべきことがあるとしたら何だろうか、と考えるのです。
別の表現を使えば、ローマ人への手紙では
「1世紀のローマ在住のクリスチャンが第一の聴衆、私たちは第二の聴衆」
とも言えるでしょう。
もちろん、聖書は現代の私たちをイエスへの信仰と正しい生活に導く神の生きた力あることばです。聖書は信仰と生活の唯一の規範です。しかし、それは、聖書の第一の聴衆が古代人であったことを否定するものではありません。いや、それどころか、そこを出発点としなければ、結局「私の視点、願いや必要」を聖書に読み込んでしまい、聖書を正しく捉えることができないのです。私たちが第二の聴衆として注意深く手紙を学んでいく。そのプロセスをご聖霊が助けてくださる、しかも教会という共同体の中で、助けてくださると私は信じています。
C まとめ
今までのことをまとめます。
キリスト教信仰の中心はただ一つ。イエスはキリスト、つまり、旧約聖書で描かれ約束されてきたメシアであるということでした。新約聖書はそれを、それぞれの時代や地域へ適用したものなので、その適用に幅があること。だから、その幅のために争ったり分派したりする必要はない、ということを申し上げてきました。また、当時の状況にあわせて書いた適用の一つを、現代に直接もってきてはならないこともお伝えしました。
III 復活の意義
さて最後にイエス様の復活のことに触れて終わりたいと思います。
実は、使徒たちの中心的メッセージ、すなわちイエスがキリストであるということと、イエス様の復活は表裏一体です。使徒たちは、イエスの復活によってイエスがメシア、キリストであることが証明された、と捉えたからです。
A 弟子たちの落胆
イエス様の地上でのお働きの間、弟子たちは、イエス様こそ待ちに待ったメシア、イスラエルの特別な王であると期待していました。ですから弟子たちは、イエスさまがローマ軍を破って国が独立し、王となった暁には自分たちは右大臣、左大臣になるつもりでした。ところが、イエスさまは、ご自身が滅ぼすはずのローマによって逆に殺されてしまいます。弟子たちは十字架の死に直面して「イエス様はメシアではなかった」と落胆しました。他のユダヤ人も、「イエスはメシアではなかった、現れては消えて行った自称メシアの一人だった」と確信しました。
B 復活
それを逆転させたのがイエスさまの復活です。例えばペテロは、五旬節の説教で同胞のユダヤ人に語りました。
...このイエスを、神はよみがえらせました。…神が今や主ともキリスト(メシヤ)ともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。(使徒2:32-36)
つまり、復活によってイエスがメシヤであると神によって示された、とペテロは語っているのです。
IV まとめ
今日のお話の全体をまとめます。
使徒たちは、イエス様こそが旧約聖書が預言し、詳しく語ってきたメシア、キリストなのだと地中海中に出て行って伝えました。同時代にまとめていったイエス様の言行録、つまり福音書では、イエス様の誕生から公生涯、復活、昇天を記録し、いかにイエス様が旧約聖書のメシア預言を具体的に果たしていったのかを伝えました。諸教会に宛てた手紙では、イエス様がメシアであるということを、各地の状況や文化、各教会が直面していた問題に合わせて伝え、それに相応しい生き方を勧めました。
そういうわけで、キリスト教の中心は一つです。しかし新約聖書を見ると、当然ながら幅がある。その幅を直接、21世紀の日本に当てはめて、争ったり分派したりする必要はないであろうとお伝えしてきました(ただし、教派の違いが互いに補い合う面もあると思います。それは全体像に共に近づいていく建徳的なあり方だと思います)。
皆さんはいかがでしょうか。皆さんも実に多様な聖書解釈や神学に触れてこられたことでしょう。意見の違いのため指導者の間で激しい論争になっているのを見ることもあったでしょう。あるいは、聖書の中の矛盾などに直面して、信仰が揺らぐときがあったかもしれません。
そのようなとき、どこに立ち返ればよいのでしょうか。それはイエス様の復活です。それさえ信じることができれば、イエス様がメシアであることを信じることができます。そしてメシアであるイエス様を頼りイエス様に従って、愛に生きようとする。それさえあれば、それ以外の解釈の違いは大きいことではなくなるのではないでしょうか。それこそが最初期の弟子たちの生き方だったと思うのです。
2016年7月18日のことです。京都府木津川市でエジプト・コプト正教会のシドニー司教区の管轄下で日本初のコプト教会の開所式がありました。そこに招かれて出席すると礼拝後の祝会で手渡されたのが、彼らの基本教理をまとめた小冊子でした。エジプト人のコプト教徒がシドニーに移住したとき、周りの人々から教理について聞かれたため初めて作ったそうです。彼らはエジプトで過激派によって教会が爆破されたとき、翌日には赦しを宣言するなど、神と人を愛することに徹して歩み続けたグループです。スコラ学もプラトン・ルネサンスも啓蒙主義もとおらなかった彼らにとって、「神学」は重要ではなくイエスを愛し人を愛する実践こそが重要だったようです。
神学も知的な理解も大切です。しかし、私たち西方のキリスト教、特にプロテスタントは、知的な論議にエネルギーと時間を使い過ぎてキリスト教信仰を必要以上に複雑にしてしまったのではないか、愛の実践が不十分になってしまったのではないか、と感じるのは私だけでしょうか。この点、立ち止まって考えてみたいと思うのです。
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