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神の像

更新日:3月3日

 創世記1章にある「神の像(かたち)」という言葉は、伝統的には、人が神に似た「尊い存在」であることを意味する、と考えられてきました。しかし、19世紀末に、新しい理解が加わりました。それは、「世界を治める務め」が人に託されている、という見方です。この理解は、近年旧約聖書学が明らかにしたことと響き合っています。それを説明するために、4千年以上前の世界に戻りましょう。


I 古代オリエント

王の像

 メソポタミアの前3千年紀、つまり、前3千年から前2千年までの千年間ですが、その後半は、都市国家が繁栄した時代です。そこのラガシュという都市は、グデア王によって栄え、アブラハムの出身地ウルが覇権を握るまで、南メソポタミアの中核的な都市でした。古代メソポタミアでは、多数出土したグデア王の像のように、王たちは自分の像、「王の像」を作って、自ら治める町々の神殿に置き、その地域が誰の支配下にあるのかを知らしめました[1]


神の像

 興味深いことに、「王の像」を作った当時の王たちは、自らを「神の像」と称していました。この言葉は、自分こそが「目に見えない神の、目に見える代理人として、この国を治める王である」ことを意味しました。


公正と正義

 しかしそれは、自らの王権を正当化するためだけの方便ではありませんでした。ウル・ナンム碑文やハンムラビ碑文など、古代オリエントの王たちが残した法律の碑文を読むと、王に託された第一の務めは、正義と公正、弱者の救済といった、社会正義を国内に実現することだったことがわかります。王が「神の像」であるとは、「神が持つ愛と正義を地上で実現する務めが与えられた存在である」ということを意味したのです。


II 旧約聖書でも

神の像

 この「像」を、当時の言葉、アッカド語メソポタミア方言で「ツァルム」と言ました。ヘブライ語では「ツェレム」となります。創世記1章27節に出てくるのは、まさにこの言葉です。


神は人をご自身のかたち(ツェレム)として創造された。

神のかたち(ツェレム)として人を創造し

男と女に彼らを創造された。


 ここでは、当時王だけを指した「神の像」が全人類に使われています。この箇所を読んだ古代オリエントの人々は驚いたことでしょう。「王だけを指す言葉が全人類に使われているのか」という驚きです。

 そして、人類全体が地上の王として造られたので、続く28節では、こう命じられています。


神は彼らに仰せられた。

「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。

海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」


 つまり、聖書を読んだ古代の人々にとって、聖書の冒頭から力強く伝わってくるメッセージは、次のようなものです。


人類全てが、目に見えない神の、目に見える代理人である。神の愛と神の正義をもって世界を治めるために造られた、全地の王である。


 五書研究家として著名なゴードン・ウェナムも創世紀のこの箇所の注解で次のように述べています。

この像(かたち)は、人を地上における神の代理人とする。人が神の像に造られていて、それゆえ、地上における神の代理人であるというのは、オリエントでは王に関する一般的な見方であった。エジプトとアッシリアの文献は、王を神の像として描いている。さらに、この箇所で、人は他の被造世界を従わせ、支配するように命じられているが、それは明らかに王としての務めである(Ⅰ列4:24〔5:4〕、など参照)。また、詩篇8篇は、神は人を御使いよりわずかに劣るものとし、栄光と誉れの冠をかぶらせ、神の手による業を人に治めさせたと語っている。詩篇8篇が、王としての役割に言及していることは明白である。人間が地上における神の代理人であることに関してもう一つ考察すべきことは、「像」が持つ意味である。神々、あるいは王たちの像というものは、神、あるいは王の代理人と考えられていたのである。[2]


どのように世界を治めるのか

 では、王である人類はどのように世界を治めるのでしょうか。創世紀1章には具体的な内容は書かれていませんが、2章にはその治め方を示唆する記事があります。15節では、人が園を耕し、守っています。「耕す」は「働く」、「仕える」とも訳され、「守る」は、「見守る」、「世話をする」とも訳される言葉です。また、19節と20節では、人が動物に名を付けています。それは、親が子どもに名をつけるような、観察、愛情、権威が伴う行為だと言えるでしょう。人は、土地と植物と動物に働きかけ、それらに仕えます。また、それらを愛して見守り、世話をします。つまり、人間が他の被造世界を治めるといったとき、それは、専制君主が好き勝手に国を支配するイメージとはかけ離れています。同じ土から造られたものとして、謙遜さと愛情をもって他の被造世界に働きかけ、またそれを愛(いつく)しんで、守り、世話をするのです。

 そして、「耕し守る」働きは、最初は農業だけでしたが、牧畜(4:2)、芸術(4:21)、工業(4:2)などに広がっていき、社会と文化を形成していくことになります。


神への背き

 「耕し守る」ことをとおして世界を正しく治める、という神の像としての使命。その使命は、人が神に背いたことによって歪んでしまいました。正しい王が暴君となり、「非常に良かった」世界に、悪が広がることになります。しかし、神は、このまま非常に良かった世界が瓦解していくのを許されるのでしょうか。

 「神の像」という言葉に焦点を当てると、この疑問に対する一つの答えが見えてきます。


III イエス・キリストを指して

 創世記で「神の像」と訳されたヘブライ語の「ツェレム・エロヒム」は、七十人訳ギリシア語旧約聖書では「エイコン・セウー」というギリシア語に翻訳されています。このエイコンは、「イコン」、「アイコン」の元の言葉で、「像(かたち、ぞう)」を指します。そして、この「エイコン・セウー」が新約聖書にも登場します。第二コリント4:4には


神のかたち(エイコン・トゥ・セウー)であるキリスト


とあり、コロサイ1:5には


御子は、見えない神のかたち(エイコン・トゥ・セウー)


とあります。「トゥ」は定冠詞ですので考慮から除外しますと、ここでは、キリストが「神の像」と言われています。すると、イエス・キリストは、神を目に見えるかたちで示す存在であり、神の代理として世界を治める王であるということになります。別の言い方をしますと、キリストこそ、罪のない真の人間であり、アダムにできなかったことを地上で成し遂げてくださる方である、ということになります。


IV キリスト者も

 それだけではありません。「神の像」が、キリスト者にも使われています。


神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたち(エイコン)と同じ姿にあらかじめ定められたのです。


とロマ書8:29に書かれていて、第二コリント3:18、また、コロサイ3:10にはこうあります。


私たちはみな、…栄光から栄光へと、主と同じかたち(エイコン)に変えられていきます。これは主の霊の働きによるのです。(IIコリ3:18)


新しい人は、それを造られた方のかたち(エイコン)にしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。(コロ3:10)


 本来、人は、神の像、すなわち地上を正しく治める王として造られました。しかし、人は罪のゆえに歪み、殺戮、搾取、環境破壊をもたらす暴君となってしまいました。しかし、神のひとり子が人として来て、私たち人間が成し遂げることができなかった務めを成し遂げてくださる。しかも、キリストは、聖霊によってキリスト者をご自身と同じ本来の神の像に変革する、と言うのです。

 私たちがキリスト者として召されたのは、何のためでしょうか。それは、キリストの王権の元に、キリストに遣わされて、今の地上を正しく治め、本来の「非常に良かった」世界に回復するためなのだ、と言えるのです。


IV 神の像の完成

 では、世界が非常に良かった状態に回復し、完成するのはいつでしょう。それはキリストが再び来られ、「万物が改まるとき」です(使3:21)。そして、新たにされた地上にキリスト者が復活した様子を象徴的に描く黙示録の最終章は、キリスト者に関して次のように語ります。


彼らは世々限りなく王として治める。(黙22:5)


キリスト者は、キリストと共に愛と正義をもって世々限りなく地上を治めることになります。ここにおいて、天地創造の目的が完遂されるのです。


V まとめ

 このエッセイでは「神の像」に注目して創世紀から黙示録まで概観しました。そこから学ぶことができるのは、


神は、ご自身が造られた「非常に良い」世界をあきらめることなく、御子イエス・キリストと聖霊により、キリスト者をとおして世界を回復しようとされている。


ということです。神は私たちを、悪しき世界から天上の世界に逃れさせようとしているのではありません。人間の罪のゆえに歪んだこの世界を、私たちの日々の生活と仕事、そして宣教をとおして正そうとされているのです。



追記:栄光の冠について

 ここでウェナムが言及した詩篇8篇(5-8節)に一言触れます。そこには、次のように記されています。


あなたは 人を御使いより

わずかに欠けがあるものとし

これに栄光と誉れの冠を

かぶらせてくださいました。

あなたの御手のわざを人に治めさせ

万物を彼の足の下に置かれました。

羊も牛もすべて また野の獣も

空の鳥 海の魚 海路を通うものも。


 ここで、詩篇記者は、神の権威の下に万物を正しく治める、人間の王としての立場と務めについて記しています。そして、それは栄光あるものであると言われています。これは、ロマ書8章の17、18、21、30節の栄光に関わりがあるかもしれません。その栄光は、黙示録22:5で人類が王として完成するときに表される栄光でもあるでしょう。

 義認、聖化、栄化は、決して一個人の徳が増し、天国でついに完成するという、個人主義的で新プラトン主義的なものではないと思われます。義認とは、義と認められた者が神の子どもとされて、世界の相続人となることであり(ロマ4:13、8:16-27)、聖化とは、神の子どもが聖霊により頼みつつ神の像、全地の王として地上で本来の神の望まれる世界を回復していくプロセスであり(IIコリ3:18)、そして栄化とは、完成された神の像としての栄光、全地の王としての栄光が地上で輝くこと(黙22:5、詩8:5-8、栄化)を指しているのではないでしょうか。

[1] Melissa Eppihimer, ‘Assembling King and State: The Statues of Manishtushu and the Consolidation of Akkadian Kingship’ American Journal of Archaeology vo. 114, No.3 (July 2010), 365-380参照。この論文はグデア王の像ではない像を扱っているが、参考になる。 [2] Gordon J. Wenham, Genesis 1-15 in Word Biblical Commentary Vol. 23A, ed. David A. Hubbard and Glenn W. Barker (Nashville: Thomas Nelson Publishers, 1987), 30-31.

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