I 初めに
あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。
あなたはそこから取られたのだから。
あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。(創3:19)
人間は罪の故に、死んで土に帰ることになりました。しかし、神は御子イエスを遣わし、イエスの十字架と復活によって、私たちを罪と死から解放してくださいました。そのため、私たちは、主イエスが再び来られるときに、死に打ち勝ち、体をもってよみがえることになります。パウロはこう述べました。
すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり…(Iテサ4:16)
主ご自身も次のように語っています。
このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。(ヨハ5:28-29)
A 中間状態
さて、以上のように、人が死んで土に帰ることと、再臨の時に死からよみがえることは聖書で明確に述べられているのですが、「中間状態」と呼ばれる死から復活までの状態はどのようなものなのでしょうか。旧約聖書の時代の人々は、死後の地下の世界、すなわち、陰府(よみ、ヘブライ語でシェオール、ギリシア語でハデス)という言葉を使いましたが、他の古代オリエントの宗教のように陰府について思い巡らし、想像を膨らませることはしませんでした。彼らにとって陰府は墓と同じだったのです。
では、新約聖書は、どうでしょう。ルカの福音書の中には、中間状態を指すのではないかと思われている記事が二つあります。死後にラザロが「アブラハムの懐」に連れていかれて慰められ、金持ちが陰府(よみ、ハデス)で苦しむ記事(ルカ16:19-31)、そして、イエスが、十字架の上で犯罪人の一人に「今日…パラダイスにいます」と語った記事(ルカ23:43)です。このエッセイでは、この二箇所に注目していきます。
B 中間状態は復活前の一時的なもの
本論に入る前に留意しなければならないことがあります。この二つの記事で取り扱っているのは、あくまでも肉体の復活までの間の一時的な状態(中間状態)であって、永遠に続くものではないということです。
ルカの福音書において、復活の後に罰を受ける場は「ゲヘナ」(12:5)です。陰府(ハデス)は、永遠の場ではありません。黙示録でも、「死とよみ」自体が世の終わりに消滅することを告げています(黙20:13-14)。
また、イエスが永遠のいのちとして語るのは、信じる者が地上に肉体をもってよみがえることです(18:30、ヨハ6:40、54参照)。天上のパラダイスは永遠の場ではありません。
ハデス(陰府)も、そして天上のパラダイスも、終わりの日の復活までの間の一時的な場(中間状態)であると、当時のユダヤ人社会では考えられていました(巻末付記参照)。
C 中間状態は中心的な教え?
さて、本エッセイで考察しようとしていることは、上記の中間状態の教えは、聖書を貫く、重要で中心的な教えなのかどうか、です。別の言い方をすれば、「天上のパラダイス(あるいはアブラハムの懐)での慰め、そして陰府(ハデス)での苦しみ」は、キリスト教神学として確立できるのか、そして、それは重視すべき中心的な教えなのかどうか、という問いです。
II 中心的な教えではない理由
筆者は、この中間状態の教えは、キリスト教信仰の確立した教理でもなければ、強調すべき教えでもないと考えています。その理由は以下のとおりです。
A イエスはほとんどこの教えに触れなかった
もし「天上のパラダイスでの慰めと、陰府(ハデス)での苦しみ」という中間状態に関する教えが、重要、かつ中心的な教えであるならば、イエスはその教えを繰り返し述べていたはずです。ところが、ルカの福音書では、パラダイスは一箇所しか現れず、ハデスが出てくるのは16:23とカペナウムへのさばきの宣告(10:15)の二箇所だけです。10:15では、カペナウムが悔い改めないので、その町が天に上げられずに、陰府(ハデス)に落とされるとイエスは語ります。これは、金持ちのパリサイ人に悔い改めを迫るために、アブラハムの懐と陰府(ハデス)を対比したことと似ていて、基本的に同じ分類に入れられるでしょう。
B 救いに導く場面で語らなかった
しかもイエスは、天のパラダイスと地下のハデスについて、人々を救いに導く場面でも語りませんでした。ルカを見てみましょう。罪赦されて喜ぶ弟子(5:33)、罪赦され、涙して感謝した罪深い女(7:38)、神の国に入れられた人々(13:28、16:16)、羊、銀貨、放蕩息子のたとえ(15章)、神殿で胸をたき、義と認められた取税人(18:13)、救いが来たと言われたザアカイ(19:9)。このように、人が、罪赦され、義と認められ、救われ、神の国に入れられた場面で、イエスはハデスやパラダイスに言及しませんでした。もちろん「ハデスの苦しみにあわず、天上のパラダイスで慰められる」ために信じ、悔い改めよとは決して語らなかったのです。
C 説教や教えでも語らなかった
では、平地の教えなど、群衆や弟子たちへの説教や教えではどうだったのでしょうか。イエスの教えの中心は神の国でした。イエスは「あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」(9:60)と命じ、「神の国は何に似ているでしょうか。何にたとえたらよいでしょうか」(13:18)と神の国について教え、「律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音が宣べ伝えられ、だれもが力ずくで、そこに入ろうとしています」(16:16)と、人々が今、この地上で神の国に入っていることを伝えています。ルカの福音書でイエスが神の国、あるいは御国について言及している箇所は35箇所に及んでいます[3]。神の国こそがイエスの宣教の中心だったのです。
神の国とは
イエスは、ユダヤ人の考えとは違う神の国を説きました。ユダヤ人たちが長い間待ち望んできた神の国は、武力によるイスラエル国家の再興でしたが、イエスが説いた神の国は、イエスをメシアと信じ、命を捨ててイエスに従い、神と人を愛する生活に入ることでした。これは、主の祈りにあるように、この地上に神の王としての御支配をもたらすことでした。イエスの宣教とみわざの目標は、人々が、自らの信仰と生活の方向を転換し(悔い改め)、地上で神を王とする生活(神の国)を始めることだったのです。
「ハデスの苦しみにあわず、天上のパラダイス(アブラハムの懐)で慰められる」という中間状態に関することは、イエスが公生涯をとおして教えた「神の国」ではありませんでした。
D 終末と中間状態は違う
イエスは、今ここで神の国に生きる信仰を強調したのですが、もちろん終末についても語りました。それは、ハデスについてではなく、人の子が再び来るときの最終的なさばきです(ゲヘナ12:5、18:8)。そしてまた、イエスが語った世の終わりの教えは第三の天のパラダイスではなく「義人の復活」(14:14)であり、イエスは復活を否定するサドカイ人たちに復活を論証しました(20:37)。また、イエスにとっての永遠のいのちは、死後に天上のパラダイスに行くことを指すのではなく、「来るべき世」(18:30)での復活のいのちでした(ヨハ6:40、54参照)。
つまり、天上のパラダイスへ行くことは、「救い」でも、「永遠のいのち」でもなかったのです。だからこそ、イエスは十字架にかかる以前の公生涯をとおして、パラダイスのことには一言も触れず、金持ちのパリサイとカペナウムを例外として、ハデスについて一切語らず、ひたすら地上における、神の王としての御支配、つまり神の国を語り続けたのです。
E イエスとパウロにとっての中心的教えに含まれない
ここで改めて強調しなければならないことは、イエスもパウロも、「再臨、肉体の復活、最後の審判、天地の刷新」を、力強く、かつ繰り返し述べていますが、二人とも中間状態については、ほとんど触れていないことです。
F 教会の伝統
また、キリスト教会も、使徒信条などの基本信条に見られるように、歴史を通して上記と同じ信仰を告白してきましたが、中間状態に関しては特定の立場をとっていません。この点も重要です。おそらく、新約聖書の記事だけからは、中間状態について明確で詳細な教理を導き出すことに無理を覚えたためでしょう。あるいは、切迫した再臨と復活、そして天地が改まるという世の終わりに関する希望に満ち溢れていたためかもしれません。
G 喩え話からは教理を導き出せない
NICC、WBC、Anchor Yale Bible、NIB-NTといった主要な注解書シリーズのルカ書の注解者たちは、ラザロの話のことを喩え話と解釈しています。金銭を好むパリサイ人が悔い改めて生活を変えることを迫るための喩え話だ、というのです[4]。
通常、喩え話からは教理を導き出すことはしません。しかも、この譬え話は他で繰り返されていない、ここだけの非常に特殊なものなので、なおさらです。
H 当時のユダヤ人の間の信仰だった
陰府(ハデス)とパラダイスに関する考えは、旧約聖書の時代の後、第二神殿期のユダヤ教で大きな変化を遂げてきました(詳細は、巻末付記)。「悪人はハデスで苦しみ、義人は天上のパラダイス(あるいはアブラハムの懐)で慰められる」という教えは、実はイエスの時代のユダヤ人の間で一般的になりつつあったものでした。イエスが、変化してきたユダヤ教の中間状態に関する教えを持ち出したのは、それを普遍の教理として教えるためだったと考えるよりも、その教えを信じていたパリサイ人と犯罪人に対する特別な意図があったと考える方が自然ではないでしょうか(巻末付記参照)。
III おわりに
「天上のパラダイス(あるいはアブラハムの懐)での慰めとハデスでの苦しみ」はイエスにとって中心的な教えではないことを見てきました。イエスは人を救いに導く時にそれを語らず、群衆や弟子たちにも教えませんでした。教会は、2000年間、中間状態のことは使徒信条などの基本信条で取り上げきませんでした。そして通常、喩え話、特に一回限りの喩え話からは、重要な教理を導きだすことはしません。しかも、この教えは当時のユダヤ教の教えだったのです。
イエスの宣教と教育の中心は神の国でした。それゆえ、私たちも、イエスご自身が公生涯でほとんど教えなかったように、ハデスとパラダイスを中心的な教えにするのではなく、自ら神の国に生きることを求め、また、神の国をひたすら述べ伝えなければならないのではないでしょうか。
現在、眠っている兄弟姉妹は、今、どこでどのような状態にいるかという詳細は分かりませんが、主の愛のみ手のうちにいることは確かです。そして再臨のときに、彼らは肉体をもってよみがえり、私たちと再会することができます。このことばをもって互いに励まし合いたいと思います(Iテサ4:13-18)。
IV 付記:ユダヤ教における中間状態の思想の変遷
上記のルカの福音書の二箇所に関してさらに考察を深めるためには、イエスの時代のユダヤ人が中間状態についてどのように考えていたかを理解することが重要となる。
A 「陰府」概念の変化
まず、陰府(ヘブライ語で「シェオル」、七十人訳ギリシア語旧約聖書と新約聖書で「ハデス」)について見てみよう。
1 旧約聖書
旧約聖書に限れば、陰府というものは義人も悪人も含めてすべての死者が葬られていく地下の世界であり、墓と同義語であった。
2 第二神殿期の変遷
ところが「陰府」はユダヤ教の中で変化していった。リチャード・ボーカムは、アンカー・イェール聖書辞典(Anchor Yale Bible Dictionary)の「ハデス”Hades”」という項目で、旧約聖書の後、第二神殿期(紀元前516年ごろから、紀元70年まで)のユダヤ教におけるハデスの変化を、おおよそ4段階にまとめている。
1)ユダヤ教に復活信仰が生じ、復活の後に、義人と悪人にそれぞれ永遠の報いと永遠の苦しみが与えられると信じられた。すると、陰府は復活までの間、死者が裁きを待つ一時的な住まいと理解された。
2)次に、死者は陰府でさばきを待つ間、裁きを予期すると考えられるようになる。つまり義人はパラダイスの喜びを期待しつつ泉の水で元気をつけ、悪人は罰を予期して悲しむと考えられるようになった。
3)新約聖書時代に入ると、悪人の罰がすでに陰府で始まるという考えが見られるようになる。つまり、最後の審判の後に「ゲヘナ」で行われるはずの火による罰が、「ハデス」(陰府)で始まるとされた。また、悪人の運命を生者に警告するために誰かが一時的に陰府から連れ戻されるという物語が多く作られるようになるのも、この時期である。
4)最終的な段階では、陰府はもっぱら悪人の処罰の場となり、正しい人は死後、直接パラダイスや天国に行くこととなった。
3 アブラハムの懐はどこか
ここで興味深いことがある。アブラハムの懐がどこにあるのかというテーマである。ラザロと金持ちの話は、金銭を愛するパリサイ人に警告を与えるための譬え話であったこと、そして、金持ちが苦しんでいるのは陰府であること、という点に関しては、主要な注解者の間で合意がある。しかし、ラザロが死後に向かった場所に関しては意見が分かれているのだ。
ジョエル・グリーンは、次のようにラザロと金持ちは共にハデスにいると語る。
ラザロと金持ちは互いに遠く離れているのだが、明らかにハデスにいる。そこで、ラザロは、アブラハムと共に至福の状態にいるのだが、金持ちは苦痛と苦悩としてのハデスを経験している。この描写と同様のものは同時代のユダヤ文学に多く見られる。ハデスはすべての人が行く場なのだが、時に、悪人と義人に分けられることによって最後の審判で予期される結末が定められているのである。[5]
それに反して、ジョン・ノランドは、ラザロは特殊なケースであるとして、「エノクやエリヤのように、特別に天に移されたと考えるべきであろう」[6]と述べている。つまり、「アブラハムの懐」は天を意味し、ラザロは死後、すぐに天に移されたとしている。そして、ジョセフ・A・フィッツマイヤーは、「アブラハムの懐」が陰府なのか天国なのか明言していない[7]。
つまり、アラン・カルペッパーが以下のように語るように、この点に関しては意見が分かれているのだ。
金持ちとラザロが両方ともハデスにいるのか(これは、ハデスは、義人も悪人も死人が行く場とするより古い考えに基づく)、あるいは、金持ちだけがハデスで、ラザロはパラダイスにいるのか(23:43)に関して、解釈者の意見は分かれている。[8]
つまり、イエスの聴衆であるユダヤ人が、上記のうち3)を信じていたのか、4)を信じていたのかの判断の違いによって、注解者の意見が分かれていると言えるだろう。金持ちが苦しみを受けているのはゲヘナでなくハデス(陰府)なのだが、ラザロが向かったアブラハムの懐が、陰府の一部なのか、あるいは、天上のパラダイスと同義語なのかに関して、ユダヤ人の「陰府」概念の変化があるので、断定できないのである。
B 「パラダイス」の変遷
「ハデス」と関係しているのが「パラダイス」である。十字架にかかった犯罪人が入る「パラダイス」(ルカ23:43)も、陰府の概念の変化と無関係ではない。
ギリシア語の「パラダイス」は、もともと古ペルシア語からの借用語で「園」を意味し、ヘブライ語のガン(園)の訳語として七十人訳ギリシア語聖書で使われた(例:創2:8「エデンの園」、13:10「神の園」)。
1 完成した世界であるパラダイス
旧約聖書では、救いはしばしば、緑豊かな地上のエデンの園(パラダイス)への回帰として描かれるので(例:創2:6、10と申11:10-11、創1:29-30と申11:14-15)、終末の救いの完成は、神の園(ガン、パラダイス)と結びつけられた(エゼ28:13、31:8)。新約聖書でもパラダイスは、世の終わりの完成した世界、いのちの木がある新しい地上を象徴している(黙2:7、22:2)。
ジョエル・グリーンは、ルカ23:43のパラダイスに関して次のように述べる。
パラダイスは、新しい創造の終末的なイメージである「神の園」を指している。「今日、パラダイスにいます」というイエスの約束は、救いの即時性(4:21、19:9参照)というルカの理解と一致しており、イエスの死に関するルカの視点の中心的な側面を強調している[9]。(強調筆者)
グリーンは、ルカのパラダイスは終末に地上において完成する世界を指している、と考えているようだ。
2 中間状態のパラダイス
しかし、他の注解者は違う意見を持っている。ここで重要なのは、ノランドが語るように
陰府(16:19-31参照)の理解の変化に伴って、パラダイスは、偉大な復活の日までの間、特別な死者が心地よく休む場所として理解されるようになったことである[10]。この点を理解するためには、黙示文学の一つ第二エノク書が参考になる。カルペッパーは次のように8:1-3を引用している[11]。
彼らは私を第三の天まで連れて行き、パラダイスの真中に置いた。その場所は、見たこともないような心地よい様子であった。すべての木が花を咲かせ、あらゆる果実は熟し、あらゆる食物が豊かに実り、あらゆる香りが心地よかった。また,四つの川が穏やかに流れ,あらゆる種類の園があらゆる種類の良い食べ物を生み出していた。その場所には命の木があり、主がパラダイスを散歩されるときは、その下で休息を取られる。その木の香りの良さは筆舌に尽くしがたい。
旧約聖書には、天地創造における地上のエデンの園(パラダイス)の姿と、終末における地上のエデンの園(パラダイス)への回帰がすでに記されていた。しかし、その後のユダヤ教では、死から復活までの待機の期間(中間状態)にもパラダイスが望まれるようになったのだ。パウロも「十四年前に、第三の天にまで引き上げられ...パラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞」いた人物を知っていると書いている(IIコリ12:2、4)。パウロは同時代に一般的であった黙示文学を理解していたと言える。
では、ルカ23:43に関してはどうか。フィッツマイヤーはルカ23:43のパラダイスに関して次のように述べている[12]。
創世紀の使用法から時を経て、終末的なニュアンスが発展し、期待される祝福の場(例:エゼ31:8)、より具体的には、死後、義人が住む、神話的な場を指すようになった(T. Levi 18:10–11; Ps. Sol. 14:3; 1 Enoch 17–19; 60:8; 61:12)。この最後の意味が、ルカの箇所で意図されたものである可能性がある。
確かにその可能性が高いようだ。この時代の終わりには、義人は復活して地上のパラダイスに住むことになるのだが、それ以前の復活までの間(中間状態)においても、義人は第三の天にあるパラダイスで、一時的であっても同様の祝福が先取りされて味わえることになったのである。
C 天上のパラダイスとハデスのまとめ
ラザロがアブラハムの懐で慰められ、金持ちが陰府で苦しむこと、また、十字架上の犯罪人がパラダイスに入れられると約束されたこと。その背景には、同時代のユダヤ教黙示文学の影響があったことを確認してきた。当時のユダヤ人の信仰によれば、人が死んでから復活するまでの一時的な期間(中間状態)に、悪人は陰府で苦しみ、義人は陰府の中でも特別な場所(アブラハムの懐?)か、あるいは、天上のパラダイスで慰められるのである。
では、なぜ、イエスは当時のユダヤ教の教えを取り上げたのであろうか。パリサイ人に対しては、悔い改めを迫るために当時一般的であったユダヤ人の信仰を効果的に用いたのではないだろうか。カペナウムに関しても、同様に、天と陰府の対比が、最後の審判における命と死を連想させたのかもしれない。犯罪人には、犯罪人の信仰に対してすぐその場で、犯罪人にとってわかりやすい言葉を使って救いの確信を与えるためだったのではないかと考えられる。
しかし、たとえ、イエスとパウロが、同時代のユダヤ教の中間時代に関する教えを共有していたとしても、それは上述、エッセイの本論で述べたように、キリスト教信仰の中心的な教えではないということに改めて留意する必要があるだろう。
[1] ルカ以外では、マタイ11:23にカペナウムに言及する並行箇所がある。 [2] 「ゲヘナ」は12:5の一回のみであり、「ハデス」より少ない。これは注目に値する。 [3] 4:43、6:20、7:28、8:1、10、9:2、11、27、60、62、10:9、11、11:2、20、12:31、32、13:18、20、28、29、14:15、16:16、17:20、21、18:16、17、24、25、29、19:11、21:31、22:16、18、23:42、51。 [4] Joel B. Green, The Gospel of Luke, The New International Commentary on the New Testament vols. 19, Eerdmans, 1997. John Nolland, Luke 9:21-18:34, Word Biblical Commentary, vol.35B, Thomas Nelson, 2016. Joseph A Fitzmyer, Gospel According to Luke X–XXIV, The Anchor Yale Bible, Yale University Press, 1985 R. Allan Culpepper, The Gospel of Luke, New Interpreter’s Bible NT vol.9, Abingdon Press, 1995, [5] Green, 前掲書, 607. [6] Nolland, 前掲書, 829. [7] Fitzmyer, 前掲書, 1131-32. [8] Culpepper, 前掲書, 317. [9] Green, 前掲書, 823. [10] Nolland, 前掲書, 1153. [11] Culpepper, 前掲書, 458. [12] Fitzmyer, 前掲書, 1511.
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