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執筆者の写真島先 克臣

思い出シリーズ1 「元戦地での宣教」

更新日:2023年11月5日


(以下は、2020年秋にフェイスブックに投稿したものです。)


*元戦地での宣教 1*

1989年6月30日。5歳、3歳、1歳の子を抱えてマニラ国際空港に降り立つ。10日間マニラで過ごした後、車で2時間半ほど南にあるバタンガス州バタンガス市へ移動。そこには、OMFが運営する語学学校があった。私たちはOMFのメンバーではないが、好意で受け入れていただいたのだ。午前中に授業を終えると、午後は町に出てそれを使ってみる。実践的な教育だ。

 町に出る。自分が日本人であるというと、人々の反応が変わる。市場の店に座る老婆は、声が震え、見ると、目が真っ赤になっている。「私は日本人が怖かった」という。その隣にいた20歳ほどの青年は、憎しみに満ちた声で「日本人が聖書を教えられるものか」と吐き捨てるように言う。「私の祖父は日本人に殺された。」、「叔父が」、「祖母が」と、会う人会う人が打ち明ける。一体ここで何が起こったのか。戦闘員同士の戦い以上のことが起こっている。私が学んできたフィリピン侵略の歴史は大まかすぎたのだ。


*元戦地での宣教 2*

 1944年10月20日、レイテ島に上陸したマッカーサー率いる連合軍は、決戦を挑む日本軍を大敗させ、一路ルソン島に向かう。1945年1月9日にリンガエンに上陸。連合軍の主力はマニラ奪還に向け南下していく。一方バタンガス州に駐留していた藤兵団(歩兵第17連隊)は、他の部隊と合流して米軍との決戦に備えるため北のマキリン山に向かうことになった。また、1月31日には、米軍はバタンガス市に近いナスグブに上陸しマニラに向け北上を始めていた。悲劇はそのとき起こった。

 バタンガス州は、もともと、アメリカ占領時代からゲリラ戦士を生み出す地方であったが、日本占領時代もバタンガスのゲリラ攻撃によって藤兵団は絶えず脅かされていた。兵団司令部は、退却とも受け取れるこのときに、ゲリラが一斉に蜂起するのを恐れ、先手を打つべく、徹底的なゲリラ掃討作戦を実施したのだ。しかし、もちろん、ただの民間人もゲリラも見分けがつかない。そこで、各地で起こったのは、住民の無差別殺戮と、その後の町への放火である。リパでは郊外の川で銃剣により、バウアンでは全住民が教会堂に集められた後の爆破により、各地で方法に違いはあったが、老人、女性、子どもを含む住民全員が殺戮の対象となった。藤兵団は、全州の各市町村でこれを行ったのである。

 私が会う人ごとに、非戦闘員の親族が日本兵によって殺されていると語ったのは、無理もないことだったのだ。


*元戦地での宣教 3*

 バタンガス市で私たちが借りていた家の大家さんは、すぐ裏に住むサルミエントさん。いつも笑顔の恰幅のいい方だ。戦争の話になる。1941年12月12日、青い空に銀色の爆撃機が隊を組んで町の上空を飛んでいくのを見た。その日から、サルミエント少年の戦争が始まる。日本軍が来ると、人々は女性を山に逃し隠した。慰安婦狩りから守るためだ。戦争末期、近くのナスグブに上陸した米軍が1945年3月11日にバタンガス市に来ると、数少ない日本兵との間に白兵戦が行われ、撃たれた日本兵の体が膨れてくのを見ていたという。その後、サルミエント少年は、米軍を導いて慰安所を解放することになる。「あの人は、慰安婦だった」と耳元で教えてくれたことがあった。


*元戦地での宣教 4*

 リパは、郊外の川で銃剣によって住民の殺戮が行われた町だ。ある時、リパ教会の役員の方と会った。「島先さん、リパに来た日本の商社の方がね、現地妻を紹介しろって言うんですよ。」私に向かって怒りをあらわにしても不思議ではないのに、穏やかに語った。それだけにこたえる。侵略、慰安婦狩り、虐殺をした上に、今度は現地妻を求める。厚顔無恥。それが私たち日本人なのか。そんな私に、フィリピンのクリスチャンは明るく、親切に接してくれる。


*元戦地での宣教 5*

 私はなぜこの地に来たのだろう。戦争責任を意識してアジアを宣教地として選んだのだが、現実は甘いものではなかった。この地では誰も、私が語る聖書の言葉に耳を傾けないだろう。日本が侵略しなかった国のほうがよかったのではないか。フィリピンに来たのは間違いだったのではないか。主に叫ぶように祈った。

 それから間もなく、休暇で近くのミンドロ島に行った。日曜の礼拝で声を交わした30代の若い長老の方が、宣教団のゲストハウスに訪ねてくれた。「私は日本人宣教師を歓迎します」と言う。初めて言われた言葉だ。「理由は三つあります。クリスチャンとしていつまでも人を恨んでいては、成長することはできません。あなたたちがいることは、日本人を赦すようにとの神様からのチャレンジです。また、フィリピンの教会は世界宣教に目覚めていません。日本の小さい教会が宣教師を送ったことは、私たちフィリピンの教会にとって、主からのチャレンジです。そして、殺された私たちの同胞がよみがえることはありませんが、あなた方が命を分かちあうためにフィリピンに来てくれたことは、償いになります。」

 三つとも宣教の効率とか実績とは無縁の理由だ。日本人である私たちが「そこにいる」だけで意味があることになる。この青年の訪問は、主からの答えだった。

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