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思い出シリーズ2 「Nの思い出ポロポロ」

更新日:2023年11月5日



(以下は、2020年秋にフェイスブックに投稿したものです。)


*Nの思い出ポロポロ 1*


小学生のころ、Nは近くの教会の教会学校に通っていて、天地を造られた神が心に刻まれた。中学生の時に兄をガンで亡くし、真剣な求道を始めた。高校生になると、hi-b.a.という高校生対象の伝道団体と出会い、その春のキャンプで、はっきりと信仰を持つようになった。1972年のことである。高校卒業後は、もっと聖書を学びたいと、女子対象の聖書学校に入学した。しかし、そこで、信仰を失いかけることになった。


*Nの思い出ポロポロ 2*


Nの父は、自分の息子を若くしてガンで失ったことをきっかけに、反公害反原発のミニコミ新聞を発行するようになった。父の元にはヒッピーたちが出入りするようになり、唯一のクリスチャンであるNは、彼らから「この公害の問題をクリスチャンはどう考え、行動するのか」と絶えず突きつけられるようになった。

 その質問を聖書学校の級友に、また教師に問うた。学校では、寮生活も含め、河川の主な汚染源の一つである中性洗剤、また、化学調味料が当たり前のように使われていて、Nはそれを指摘した。


*Nの思い出ポロポロ 3*


「それは罪の結果。」「とにかく伝道しましょう。」それが、答えだった。

自分たちの口に入る化学調味料を捨てることはできたが、下水管の先の自然を守るために中性洗剤の使用を止めることは難しかった。「右の手で『神がよい世界を造られた』と語りながら、左の手では、その世界を壊している。そこに矛盾を感じないのだろうか。罪と認めながらそれを改めようとしないのがクリスチャンの生き方、キリスト教信仰が目指す生き方なのか」と思った。それに比べ、真剣に社会の問題を考えて行動しているヒッピーたちのほうに魅力を感じ、信仰から離れようとしたのだった。


*Nの思い出ポロポロ 4*



悩むNの姿を見た聖書学校の教師が、フランシス・シエーファーの本を勧めてくれた。エディス・シェーファーの本も読んで感銘を受けた。クリスチャンとしてどのように生きるべきかと真剣に問うシェーファー夫妻の姿に共感を覚えた。ヒッピーたちがラブリを訪ね、改心していることも知り、いつか訪ねたいと思うようになった。

 F・シエーファーの本は難解だったが、そこから教えられ、自分なりに出した結論がある。「2000年の間、教会がまともだった時はほとんどなかったのではないか。しかし、その中にも、星のように輝くクリスチャンが数は少ないけれども存在し、その人たちのおかげで、聖書の真理が受け継がれ、私が信仰を持つようになった。教会に期待するのではなく、自分がその星になることを目指そう。」

 Nは、信仰に留まる決心はしたものの、「社会派」とレッテルを貼られ、社会や環境の問題をクリスチャンとは話さなくなった。


*Nの思い出ポロポロ 5*


Nは、聖書学校卒業後、勧められるままにある神学校の職員として働くようになる。そこで、周りと比べて少し雰囲気の違う神学生と出会った。話してみると、学生運動とヒッピームーブメントに関わりがあったという。この人ならば、語り合うことができるのではないかと思い、求めに応じて結婚することにした。しかし、十数年後、夫となったこの男性に、同じ理由で深い絶望感を抱くことになる。


*Nの思い出ポロポロ 6*


神学校で三年間働いた後、スイスのラブリを訪ねることにした。1980年の6月だったと思う。英語は一番の苦手、蓄えもあまりない。海外は初めてだった。今のようにインターネットも旅行ガイドブックも使える時代ではない。ラブリを訪ねたい一心で、不安を抱えながらも成田から一人で旅立った。ヒースローに着いた時、荷物受け取りレーンにNのリュックはなかった。カラチで乗り換えた時に紛失したのだ。とりあえず紛失届を出し、空手で前に進む。数日後、コーンウォールのホームステイ先に着き、夜、通読していた申命記を開くと、箇所は8章だった。翌日の日曜礼拝の説教も同じ箇所からだった。何も持たずにこの地に降り立ったのだから、この旅で得るものはすべて主からのもの、とNは信じた。孤独と不安の中で、主が共にいてくださることに思いが至り、涙が止まらなかった。


*Nの思い出ポロポロ 7*


翌朝、近所の人が「あなたのところは、よく若い人が滞在するから」と持ってきた袋いっぱいの衣服。サイズはすべてNにぴったりだった。Nが申命記の話をすると、その方は、「神様はあなたのサイズまでご存知なのね!」と、自分が身につけているものまで脱いでNにくれた。イギリスのクリスチャンの生きた信仰と愛に触れた。そして、この出来事は、まだ見ぬ将来の、長く不安定な海外生活の支えとなった。


*Nの思い出ポロポロ 8*


コーンウォールのお宅で一ヶ月ほど、お世話になって、ロンドン近郊に移動。WECという国際的な伝道団体が運営する施設で、半年ほど働きながら英語の研修を受けた。建物は貴族の館だったもので、お城のようだった。安く英語を学べるため世界中から若者が集まっていた。一部屋を国籍が違う8人で共有し、様々な文化の違いを体験した。お互いに片言の英語でしゃべりにしゃべった。

 スイス人と親しくなった。ラブリに行くつもりだと話すと、クリスマスを一緒に過ごすようにとチューリッヒの実家に招いてくれた。その頃、イギリスに来た時に失くした荷物の補償金が手に入った。それはスイス往復の飛行機代とほぼ同じだった。実は、そのお金さえ手元になかったのだ。


*Nの思い出ポロポロ 9*



       (スイスのラブリ)


1980年の12月末に念願叶ってスイスのラブリに着いた。夕日を背景にオレンジ色に染まるダン・ドゥ・ミディの山並みは美しく、雪の中に立つシャレーでの語り合い、そして初めて食べたキッシュロレーヌの味はすばらしかった。休日に、仲間とヒッチハイクで町に繰り出したことも忘れられない。

 もともと英語が苦手だったため、ラブリでのディスカションや課題図書の内容は十分に吸収できなかった。しかし、1ヶ月の滞在で自分なりに理解したことがあった。それは、彼らは確かに真剣に問うてはいるが、はっきりとした答えや方向性を掴んではいないということだった。


*Nの思い出ポロポロ 10*


1981年2月、ヒースローから日本に向けて出発した。カラチで乗り換えたとき、数時間の待ち時間があった。無駄になるかもしれないが試してみたいと思い、係員と交渉し、行き先が分からない荷物の保管所に向かった。それはなんと、巨大な倉庫だった。スーツケースが高い天井まで積んである。Nは、すぐに自分のリュックを見つけた。いくつかの品は抜かれていたが、とにかくそれは戻ってきた。結局、この旅で失ったものは何もなかった。


*Nの思い出ポロポロ 11*


10月結婚。教職の妻となる。

1974年にローザンヌ会議が開かれ、その成果が70年代末には邦訳されて出版されていた。そして、諸教会で読まれ、学ばれていった。ローザンヌ誓約で謳われていたのは、伝道だけではなく、社会的責任も重要であるということだった。Nは、これで福音派の教会が変化していくのではないかと期待し、それに後押しされて、教会の中で多少の発言をするようになった。しかし、十分な理解は得られなかった。


 農薬漬けで疲弊した土地で作られた野菜は、安くても買わない。環境と正義を考えている企業の製品を買う。消費者である主婦が変われば、社会は変わる。このようなことは、あまりにも当たり前で、子どもでも分かる。未信者で実践している人は多い。では、なぜ、愛をこめて世界を造った神を信じるクリスチャンに理解されないのか。クリスチャンこそが、まず行動を変えることができるはずなのに。Nにはまったく理解できなかった。また、質問されても相手が理解できるように答えることができず、そんな自分をもどかしく思った。


*Nの思い出ポロポロ 12*


       (イギリスでの我が家)


1989年、三人の子どもを連れて、夫と共にフィリピンへ。そして、アメリカ、イギリスへと移動した。

 アメリカでは、ニューイングランドにある神学校の寮に住んだ。紅葉の鮮やかさは夢を見ているようだった。神学校側と交渉して、広い芝生の一角を畑にした。数年後に訪ねると、畑はキャンパスのいたるところに広がっていた。みんなもその方が良いと思っていたのだ。

 イギリスで住んだ家は、コッツワールド丘陵の中腹にあり、家の前も後ろも牧場で、庭のフェンスに寄ってくる牛たちとは顔なじみになった。家からの眺めは素晴らしかった。しかも、それは太陽の角度と雲の動きによって刻々と変化し、被造世界の美しさに一日中浸っていることができた。我が家の庭先から虹が立ったこともある。神様からの特別なプレゼントと感じた。その家の庭も畑にして、野菜と花を育てた。楽しかった。


*Nの思い出ポロポロ 13*


その間、日本の父親から送られてくる1ヶ月遅れの「週刊金曜日」と「ニューズウィーク」を読み、様々な社会問題を夫と分かち合い、語り合おうとした。しかし、夫は、どこか煮え切らない。そして、ついに「社会問題の話は止めてくれ」と言った。1997年の夏。結婚して16年。イギリスに来て一年経った時だった。

 教会で孤独であっても、この人となら語り合えると思って結婚したのに。もうこの人と一緒にいる意味はないと思った。当時、自宅で論文を書いていた夫には、昼間は大学の研究室で勉強して欲しいと言い、家から出て行ってもらった。夫といるのが辛く、一人でいる時間が欲しかったのだ。


*Nの思い出ポロポロ 14*


ここで、一年前の渡英の日に戻りたい。

1996年7月31日の夜、私たちは三人の子どもたちとヒースローに降り立った。これから向かうチェルトナム市からタクシーが迎えに来ていた。博士課程でお世話になるゴードン・ウェナム師が手配してくださったものだ。

 イギリスに渡るにあたり、夫はイギリス英語についていけるか心配していた。タクシーの前座席に夫が乗り、Nたちが後部座席に座った。子どもたちは旅の疲れからすぐに眠ってしまった。間も無く、夫と運転手の空気が何か変だと気が付いた。会話が成り立っていないのだ。運転手も話しかけるのをやめてしまった。長い沈黙の道中で、初日から不安になった。これから博士課程に入っていく夫は、なおさらだったと思う。後で分かったのだが、それは、かなり強いグロースターシャー方言だったのだ。

 言葉の通じない運転手が道に迷い、深夜になってウェナム家に到着。翌朝からご家族が2週間のバケーションに出る間、家の留守を守ることになる。ゴールデンレトリバーの老犬、ケリーの世話は楽しかったが、初対面の私たちに家の鍵を預けて、「じゃあ!」と休暇に出かけるオープンさに圧倒された。


*Nの思い出ポロポロ 15*


2週間、家探しをしたが、イギリスは全土が夏休みで、不動産屋は軒並み閉まっている。たまに開いていても、大家さんが休暇中で、家の中を見られない。もうウェナム家を出なければならない。物件は動かず、困った。仕方ないので、夏の間、旅行者に貸し出されるロンドンの大学の寮や、ヴァケーション・コテッジ、ベッド・アンド・ブレックファスト(B&B)などを転々と泊まり歩いて、時間を潰すほかなかった。その間、色々努力したが家探しは一向に進まない。ウェナム家滞在中に下の息子が喘息を発症、放浪しているうちにNと娘が熱を出した。海外生活は長かったが、この不安定さはこたえた。


*Nの思い出ポロポロ 16*


9月の新学期の開始が迫っていた。子どもの学校も決めなくてはならない。一人の子がアメリカで不適応を起こしたことがあり、学校選びは重要だった。公立校にはあわないだろう。子どもたちがうまく適応しなければ、夫の学びもままならない。どうしたら良いかと思案していたとき、シュタイナー・スクールが近くにあることを知った。調べると、子どもらしさを大切にしながら、ゆっくりとした教育をするらしい。ただ、非常に宗教色が強いことが心配だったし、クリスチャンには反対された。しかし、そこに決めた。


*Nの思い出ポロポロ 17*


9月に入ってようやく不動産業者も動き出したが、なかなか条件に合うものはない。子どもがB&Bから登校するようになり、アメリカからの引越し荷物も受け取らなければならない。冬も迫ってきていて、急いでいた。予算をはるかにオーバーし、子どもの学校からも遠いのだが、一時的にと思ってストーン・ハウスという村にある家に決めた。ヴィクトリア朝時代の石造りの大きな家。ダイニング・キッチンだけで、小さな家が入りそうだ。キッチンは大きいだけで使いにくい。何と言っても、とにかく寒い。唯一、良かったのは音響だった。持っていたのは小さなPC用ステレオシステムだったが、まるで、目の前でビル・エヴァンスのライブ・セッションを聞いているようだった。


*Nの思い出ポロポロ 18*


         (コッツワルドの田舎道)

150年前の家だったが、ご近所の方からは、その村では新しい方の家だと言われて驚いた。一番古いのは大家さんの家にある建物。紀元800年ごろ、アングロサクソン時代に建てられた教会堂で、今でも納屋として使っている。その村でお祭りがあるという。ガイ・フォークスという十七世紀の人物が、イングランド王ジェームス一世暗殺未遂の罪で処刑されたことを祝うのだ。所変われば祭りも変わる!

 子どもたちの学校は遠くなった。Nは送迎のために、片道25kmの細い田舎道を、朝夕車で飛ばした。しかし、コッツワールドの田園風景は美しく、ターナーの世界を走っているようで、毎日100kmの運転が苦にならなかった。


*Nの思い出ポロポロ 19*


ふさわしい家を探して1ヶ月、2ヶ月が過ぎていく。距離も問題だが、経済的に限界だ。ある晩、Nは涙しながら祈った。子どもの学校と夫の大学に近く、野菜づくりができて、美しい場所にあり、犬が飼えて、予算以内で、という祈りだ。

 犬については、アメリカにいたとき、引越しを嫌がる子どもたちに、さらなる移動を納得してもらうために犬を飼うことを約束していたのだ。フィリピンにいた4年間に5回引越しをし、現地の幼稚園、ホームスクーリング、そしてマニラの日本人学校。帰国してから日本の学校を一年体験したあとに渡米し、やっとアメリカの学校や生活に慣れてきたところだった。嫌がるのも無理はない。子どもたちには申し訳ない気持ちだった。


 誰にでも子ども時代を振り返った時の景色がある。引っ越しを繰り返してきた私たち家族にとって、三年も一箇所にみんなで暮らせるのは初めてのことだし、もしかしたらこれが最後かもしれない。だとしたら、子どもたちが大人になった時に「自分の子どものころ・・・」と、振り返る場所が欲しいと、Nは思った。


*Nの思い出ポロポロ 20*


それから1週間ほどだったと思う。ピッチコム村への道沿いにある不動産屋に立ち寄ると、新しい貸家物件が出ていた。少し暮らしにくさはあるものの、予算以外は祈った条件にぴったりだった。図々しくも、「キッチンにガス台を入れ、流しの蛇口を代え、風呂にはシャワーをつけて・・・できたらトイレをもう一つ・・・、かつ家賃を下げて欲しい」とぶつけてみた。半ばあきらめていたのに、大家さんは承諾。コッツワールドの丘の中腹にある、小さくてかわいい一軒家を、グレードアップした上で安く借りることができた。

 父なる神様は娘の涙にはちょっと甘いのでは、と夫は内心思った。


(日本と違ってイギリスでは、グレードアップした中古住宅は価値が上がって高く貸せたり売れたりするので、オーナーの損にはならないのだが、私たちにとっては奇跡だった。)


*Nの思い出ポロポロ 21*


(シュタイナースクール:Wynstones School in Gloucestershire)

子どもたちの通学は、車で7-8分と、楽になった。小学校3年生になった下の息子は帰ってくると「お母さん、今度の学校は、ぼくの好きなことだけ、ずーっとやってるんだ」と、目を輝かせていた。その日は芋掘りをして、その経験を絵に描き、文章にしていたらしい。

 シュタイナーというと、日本では教育しか思い浮かばない人が多いと思う。しかし、ルドルフ・シュタイナーの思想・宗教は、生活全体を網羅する。有機農法、人間の自然治癒力を大切にする医療、芸術、建築にまで及ぶ。彼らのシンプルなライフスタイルは、着るものや食べるものの素材まで、自然なものにこだわる。その地域には、学校に加えクリニック、障害者施設や老人施設まであった。そのすべてがシュタイナーの思想をもとに運営されていた。

 最初の父母会の夜だった。まだアメリカ文化が抜けきらないNと夫は、ジーンズにスニーカーで出席した。次第に集まってくるご両親たちのいでたちを見て、場違いな身を小さくした。農作業を終えて仕事着で駆けつけるお父さん。なんとなく羊の匂いがするセーターのお母さんたち。足元は年季の入った革靴。まるで、戦後のヨーロッパを映像で見ているかのような、セピア色の写真を見ているような光景だった。


*Nの思い出ポロポロ 22*


子どもを迎えに、友だちの家に行くと、いつもお茶に誘われた。ご両親の話を聞くと、若い時に環境問題に関心を持ち、教会を訪ねたのだが、そこに答えを見出せず、シュタイナー運動に参加したという。同じような話しを他の方からも聞いた。シュタイナー運動は早い時点で環境問題に取り組んでいたらしい。

 彼らの家は質素だが、手作りのものが飾られ、どこかほっとする雰囲気をもっていた。また、彼らは私たちにも関心を持ち、日本人である私たちが、なぜ、どのようにキリスト教信仰を持つようになったか、真剣に聞いてくれた。

 もちろん、シュタイナーの思想や人々の倫理観には同意できないことがたくさんあったが、クリスチャンの生き方にも同意できないことはたくさんある。教会の人たちからは「え、子どもたちをあの学校に送っているの?!」と、ずいぶん驚かれたが、キリスト教教育なら、あるいは公立学校なら大丈夫だとなぜ言えるのだろう。

 ただし、シュタイナー思想の学校に送る以上これだけはと、毎朝5時に起きて、子どもたちと聖書の学びをした。日本語と日本の算数も続けたが、これは、万が一、日本に帰国せざるを得なくなった時のためだった。


*Nの思い出ポロポロ 23*


次第に、シュタイナーの方々と、教会で出会うクリスチャンの生き方の違いがはっきりしてきた。シュタイナー主義の人々は、一人一人の食べること着ることから、社会全体まで、シュタイナーの思想をもとにトータルにものを考えていた。安ければいい、かっこいいブランドがいい、もっと豊かにといった消費生活に対して、別のあり方を目指していた。

 ところが、私たちが集った教会のクリスチャンの知り合いは、共感できる人もいたが、それは例外的だった。たいていは仕事で忙しく、たまに家に招かれていくと、社会のあり方や環境問題に対しての問題意識は感じられない。自分の消費生活にも無頓着で、家は物であふれている。ライフスタイルや価値観は、一般の人々と同じだった。


*Nの思い出ポロポロ 24*


何かを求めている人、社会や環境の問題に関心のある人は、クリスチャンではなく、シュタイナーの人々の生き方に魅力を感じるだろう。ちょうど、Nが20歳のころ、ヒッピーの生き方の方に魅力を感じたのと同じだ。本来は、クリスチャンこそが生活全体、社会全体をトータルに考える広さと、社会を変えていく力があるはずなのに・・・。

 「教会に期待しない」と思って信仰に留まり、20年以上経っていた。教会は変わらなかった。少なくともNの周りの教会は変わったように見えなかった。せめて、夫と語り合うことだけが命綱だったのに、「そういう話はやめてくれ」と言われ、それさえ断ち切られたのだった。


*Nの思い出ポロポロ 25*


朝、子どもたちも夫も家から出かけた。立場上、夫はいつも家にいて、それまでNは一人になることがなかったのだが、初めて自分だけの時間を得た。日本人の友人と街で会って話し込んだ。彼女とインド式の歌の講座も取った。隣のエッジ村の教会に通ってオルガンの練習に明け暮れた。バッハの美しい旋律に込められた信仰に触れ、自分がバッハと同じ信仰をいただいていることに感動した。もともと信仰を捨てるつもりはなかったが、もう自分から教会に行く思いは失いかけていた。

 そのような時、少し離れたサイレンセスター市のバプテスト教会に集い始めた。牧師は、中流の地域から来る信徒に向かって生活の方向転換を迫る厳しい説教を語っていた。市内の元空軍基地から飛び立つB-52によるユーゴ空爆を批判し、コンピューター2000年問題に備えて地域住民のためにと教会堂に備蓄をし始めていた。祝祷が終わると牧師はピアノに直行し、後奏の代わりに信徒のミュージシャンと軽快なジャズのセッションを楽しんでいた。ミドルミス師の、型にとらわれない自由なあり方と説教は、Nにとって暗闇の中の一条の光だった。


*Nの思い出ポロポロ 26*


夫も悩んでいたことを後で知った。夫は、家から追い出されたおかげで、大学でクレイグ・バルソロミューという教授と出会った。この人から紹介された本を通して、今までと違ったキリスト教に触れた。クレイグが主催する連続講演会があり、夫はそれにも出席していた。啓蒙主義が西洋社会とプロテスタントに与えた影響についてのものだった。

 我が家のすぐ裏はコモンと言われる丘で、夫は被造世界の美しさの中で、毎朝、毎夕、犬を散歩させながら、学んできたことを思い巡らしているようだった。

 そんなある日、夫が「君が語ってきたのはこういうことだったの?」と、話し始めた。Nは耳を傾けた。そして最後にポツリと、「そうよ。ずっとそのことを言ってきたじゃない」と答えた。

 夫にとって、「イエス様の救いは個人の罪を赦し、魂を天国に送る」だけのもの。被造世界は結局消えて無くなるのだから、社会や環境の問題に取り組んでも、究極的な意味は見出せないと考えていた。そのために、Nとの語り合いに心から向き合えなかったのだという。

 結婚前には「僕は、元ヒッピーたちが集まっている教会で信仰を持ったんだ」とか、「彼らの生き方に感動した」なんて話していたのに・・・。だましたなぁ!


*Nの思い出ポロポロ 27*



夫が読んだ本のタイトルは『キリスト者の世界観-創造の回復-』。内容は、「聖書の語る救いは、世界全体を本来の大変良かったものに回復し、完成すること」というものだった。「主イエスの十字架は、社会を歪めるあらゆる罪を赦すだけではなく、そのような罪から人を解放する。それを信じたキリスト者は、聖霊によって世界を罪の現状から回復していく。そして、主がついに来られる時、神が願っていた世界が完成する」と言うのだ。

 世界を見るメガネを掛け替えた夫は「神学を一からやり直さなければならない」と言った。そして、その視点で聖書を読み直していった。聖書が全体として、本当にそう言っているのか確かめたかったそうだ。

 しかし、Nにとっては、その捉え方は、新しいものでも違ったものでもなかった。罪によって世界が損なわれたのだから、その罪を悔い改めた者が世界を正そうとするのは、自明の理だった。「そんな単純なこと、どうして最初から分からなかったの」と、Nは思った。夫が分かるように語れなかった感覚人間Nの問題もあるのだが・・・。



*Nの思い出ポロポロ 28*


1999年6月8日、夫は博士論文の審査のためにスコットランドに向かった。この審査に通れば、3年に及ぶイギリスでの学びが終わることになる。幸い審査は合格した。

 帰国を目前にしたある夜のこと、少し風邪気味で早めにベッドに入ったNを、夫が「月夜の菜の花畑を見に、ちょっとドライブしてこようか?イギリスとも、もうさよならだから」と誘った。「あら、素敵!」と、パジャマの上にコートを着て車に乗り込んだ。サイレンセスターに向かう道の丘の上に来た時、街灯もなく、月の明かりに浮かび上がる見渡す限りの菜の花畑が、なんとも幻想的で忘れることができない。

 「ちょっと外に出てみよう」と車を寄せた瞬間だった。ドタンと溝にタイヤがハマった!タイヤは空回り。夜の10時過ぎ。ここは見渡す限りの菜の花畑。ほとんど車は通らず、ケータイなどない時代。どっちの町にも5キロ以上の丘の上。おまけにNはパジャマにコート、足元はスリッパだった。家に子どもたちを残してきている。どうしよう!


*Nの思い出ポロポロ 29*


二人が家に帰れる方法はただ一つ、ヒッチハイクのみ。真夜中、丘の上の菜の花畑の道で、アジア人の中年の男女が親指を立てて車を止めている姿を想像して欲しい。誰が止まってくれるだろう。私なら絶対に止まらない。


 ところが、しばらくすると親切な女性が止まってくれた。この人は、私たちを自宅に連れて行き、「寒かったでしょう」と暖かいお茶を出してくださり、話を聞いて、家までわざわざ送ってくれた。「あの道は、うちの息子もよくヒッチハイクで帰ってくるのよ。その恩返しね。あなたたちは悪い人に見えなかったし。」


 その夜、帰宅したのは深夜。菜の花も忘れられないが、見知らぬ人の温かさにふれて、すべてが思い出に残る夜になった。


*Nの思い出ポロポロ 30*


1999年6月24日。イギリスを出る日。友人が隣町のバス停まで、私たち家族を送ってくれた。なんと、そこにクレイグがいた。やはり空港に向かうのだという。クレイグは私たちの結婚生活を救ってくれた恩人だ。不思議な出会いだったが、別れもまた不思議だった。まるで、天使のように現れた人だ。いや、きっと彼は天使だったのだ。ずいぶん背が高くて、ふっくらとしたおじさんだったけど・・・Nは今もそう信じている。バスの中で、夫とクレイグは名残惜しそうに語り合っていた。


 長男は、「友人もできたし、これ以上親の都合で引きずり回されるのは嫌だ」ということで、イギリスに残ることになった。16歳だった。この後、家族がみんなで暮らすことはなかった。下の二人の巣立ちも早かった。


20年以上たった今、カンタ(犬)と一緒に暮らしたイギリスの家「Green Meadows」は、コッツワールドの景色の中で、みんなの思い出の場所になっている。家を祈り求めた時に、Nが予感したとおりとなった。


*Nの思い出ポロポロ31*



 帰国した翌年、2000年の7月に、下の二人の子どもとフィリピンに戻った。夫は神学校の教師となる。クラスでは、「創造の回復と完成」というイギリスで出会った視点で聖書を教え始めた。


 学生はびっくりし、反発した。カトリック国で育った彼らは、「死後、魂は天国に行き、そこで永遠を過ごす」という教えが深く心に刻まれていたからだ。しかし、聖書をじっくり学ぶにつれて、彼らも理解するようになった。夫の同僚の教師の多くが同じ視点で教えていたのも助けになった。


 夫は毎朝、満員のジプニーの後ろにぶら下がり、暑さと排気ガスのなかを神学校まで通勤した。真剣に耳を傾け、吸収し、生き方が変わっていく学生たちの姿を見て、水を得た魚のように生き生きと、喜んで教えていた。


*Nの思い出ポロポロ 32*


 授業を通して変わった学生のことを夫は話してくれた。


 プロのピアニストで、ピアノを捨てて神学校に来た学生は、再びピアノを弾き始めた。有名な政治家ファミリーの一員で、政治が嫌になって神学校に来た学生は、主に喜ばれるフィリピン社会を作ろうと政治の世界に戻っていった。これはフィリピンでは命がけのことだ。世界トップクラスのチェスプレーヤーは、高価なチェス一式を売ってしまったのを悔やむようになった。首都圏で牧会し、夜のクラスで学んでいた人は、教会のイベントには積極的に町の指導者を招いたり、教会として地域に貢献したりするようになった。


 インドからの留学生がいた。父親である牧師が、元ドラッグユーザーの更生のために尽力し、地元警察からは頼りにされていたのだが、周囲の牧師からは理解されず批判されていた。しかし、夫の授業を通して、その働きの大切さを確信し、卒業後、父親を助けるために帰国していった。


 みんな今頃どうしているだろう。いつか、その後のストーリーを聞くことができるかもしれない。そんな風に思うと、嬉しくてたまらない。こういうキリスト教を願ってきたのだもの。


*Nの思い出ポロポロ 33*


 フィリピンのクリスチャンも牧師も、社会問題を避けては通れない。大統領や政府の不正、革命、貧富の差の激しさ、公害問題など、目を閉じようとしても無理なのだ。大きな選挙の前になると、福音派で超教派のクリスチャン団体が、「なぜクリスチャンが投票するのか。今回の選挙をどのように考えたら良いのか。それぞれの論点は何か」などを教会に教えにきてくれた。


 「伝道だけしていればよい」ではすまされない。絶えず、クリスチャンとしてどう考え、生きるのかが問われてくる。神学校も、そのような必要に応えるために、クリスチャン職業人を対象とする授業を提供するのを使命としていた。


 そのような彼らにとって、夫のクラスで学んだ聖書の視点は励ましとなり、指針となったようだ。


 フィリピンを去って数年たったとき、夫は神学校主催の講演会に招かれた。そこでの学生たちとの再会は特別だった。み言葉に教えられた生き方を喜んで貫いていたのだ。Nも嬉しかった。


*Nの思い出ポロポロ 34*


2004年にフィリピンから帰国して16年、夫がNのことを理解するようになって、かれこれ20年余り経つ。その間に、世界の福音派も変化してきたようだ。


 ラブリも、「創造の回復」という視点を教える神学部の博士課程に指導者を送ってきた。


 ローザンヌ誓約の「伝道と社会的責任の両輪とバランス」では、結局、「社会的責任」も伝道の手段となってしまったように見える。


 しかし、世界の福音派の指導者が出したケープタウン決意表明では、それが逆転した。「伝道(宣教)とは、社会正義と環境保護を通して世界を回復する弟子を生みだすこと」と画期的な表明をしたのだ。車の両輪ではない。バランスの問題でもない。この違いは大きく、言われていることは単純だ。しかし、その違いがなかなか理解されないのはなぜだろう。


*Nの思い出ポロポロ 35*


 福音派指導者のこのような変化はうれしいのだが、その理解と生き方が、一人一人の信徒のレベルにまだ届いていない。二十歳そこそこのNが「教会に期待すまい」と悲愴な決意をしてからあと数年で半世紀となる。今もあまり変わらない現状にNは悲しみを覚える。しかも、気候変動の問題は待ったなしだ。


 「キリスト者と教会は、貧しい者とともに歩み、正義を求め、気候変動に取り組み、持続可能な社会を目指すようになった。その姿を見て、若者が教会の戸をたたくようになった」と言えるようになったら、どんなに素晴らしいことか。Nが味わった失望を、教会を訪ねる若者に味わって欲しくないのだ。


 ただ、何と言ってもNの願いは、夫が、頭だけではなく生活全体でもっと変わることなのだが!

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©2021 by 島先克臣

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