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聖書シリーズ(1)−聖書と科学

古代人の宇宙観
古代人の宇宙観

(CF風の会礼拝説教より)


 本日は「聖書は科学の書?」というテーマで、教会と科学の関係を考えてみたいと思います。教会と科学の対立は長い歴史を持っています。カトリック教会は1616年コペルニクスの地動説を「誤謬」とし、1633年にはガレリオを異端審問所に召喚して、地動説を撤回させました。

 18世紀に入ると地球の年齢が議論となり、19世紀に入ると主な衝突点は進化論となりました。1925年にスコープスという教師が学校で進化論を教えたために裁判にかけられ、有罪となったのは有名な出来事です。

 今では、アメリカや日本の福音派を除いて、世界中の多くのクリスチャン、イギリスの福音派の人々を含めてですが、古い地球と有神論的進化論を受け入れるようになってきています。有神論的進化論というのは、神様が進化論のプロセスを導いて世界と人間を造られたという考え方です。それに対して、一部のアメリカの福音派のクリスチャンは、地球は平らであり、太陽が地球を回っていると今でも考えています。聖書がそう語っているからです。

 さて、本日、私がしたいのは、何か特定の立場、例えば有神論的進化論の是非を論じることではありません。長い間、教会と科学が対立し続けてきた原因の一つについて私が考えていることをお分ちしたいのです。

 私はその主な原因は、聖書の第一の聴衆を誤解したことにあると考えています。


I.  聖書の第一の聴衆は古代人

 聖書は、21世紀の私たちをもキリスト・イエスへの信仰と正しい生活に導く(IIテモ3:15-16)神の生きたことば(Iペテ1:23)です。聖書は今でも私たちに神の御旨とご計画を語っています。


 しかし、だからといって聖書の第一の聴衆が古代人であることを否定するものではありません。聖書は何と言っても古代人が古代人に向かって語ったものです。モーセは約束の地に入ろうとしていた三千数百年前のイスラエル人に向かって申命記の警告と励ましを語りました。申命記は直接21世紀の日本人のために語られたものではありません。申命記の言葉がダイレクトに私たちに語られていると考えるのは誰が考えても間違いなのです。私たちは、その当然の前提に立った上で、申命記から何を学べるのかを調べ、考えるように招かれています。この当たり前のことが見落とされてきたのが大きな問題だと思います。

 このことを分かりやすく一言で言いましょう。


「聖書の第一の聴衆は古代人で、私たちは第二の聴衆である」


 ということができると思います。


II. 古代人の世界観で

 さて、ここで聖書の第一の聴衆が古代人であるというあたりまえの前提にしっかりと立った上で、あの試みを受けたヨブのことを考えていただきたいのです。神様はヨブ記の最後で、ご自身こそが天地を造った偉大な神であり、全知全能の主権者であるということをヨブに伝えようとしました。その時、神様は、ヨブに向かってどのように語るでしょうか。


  A. 古代人の宇宙観

 ここで、ヨブも含めて当時のイスラエルやメソポタミヤの人々が宇宙についてどのように考えていたかをご紹介します。彼らは、宇宙をおおむね次のように天、地、地下の世界の三層のものとしてとらえていました。


 大地は平らな円盤の形をしている。その円盤は巨大な水源の上に、柱によって支えられ、その柱は台座、あるいは要石の上に据(す)えられている(Iサム2:8、ヨブ38:6、詩24:1-2)。

 大空は固いドーム状のもので、太陽、月、星々はこのドームに置かれ、このドームの上には大いなる水源(創1:7)と神の御座がある。地は動かず、このドームが動く。


  B. どの宇宙観を用いるのか

 このような宇宙観を持っていたヨブに、古代インドや古代エジプト、あるいは21世紀の科学的宇宙観を土台に神の主権性を伝えようとしたらどうなるでしょう。たとえば、「そもそも大地は円盤でなく、丸いのだ。大地は柱で支えられていないし、大地の下に巨大な水源もない。そのような地球を神が造られたのだ。」とヨブに語ったら、ヨブはひどく混乱するだけだったでしょう。神様が伝えたかった神の偉大なみ業と主権性というメッセージは伝わらなかったことでしょう。

 聖書の独自のメッセージを伝えるためには、ヨブが理解できる宇宙観を用いる必要がありました。ですから神様はヨブに次のように語りました。


4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。 分かっているなら、告げてみよ。…6 その台座は何の上にはめ込まれたのか。あるいは、その要の石はだれが据(す)えたのか。(ヨブ38:4-6)


 ここで聖書は、ヨブが理解できる宇宙観を用いて、神の創造のわざと神の圧倒的な主権性をヨブに伝えています。神は地球の構造について現代の知識をヨブに講義をすることはしなかったのです。みなさん、これはヨブの立場に立てばごく当然のことだと思いませんか?

 聖書の第一の聴衆は古代人である。聖書のこの至極当然の性質を認めることは大切です。そうすればある人々のように「聖書は非科学的で誤りがある。信頼できない」と考える必要がなくなります。同時に、「平な大地が柱によって海の上に支えられている」と無理やり信じる必要もなくなります。そして、聖書が伝えようとする中心のメッセージを正しくつかめるようになるのです。これはヨブ記だけではなく、聖書全体に当てはまります。


 もちろん創世紀1章もそうです。創世紀一章は、神の創造のみ業の偉大さと世界の秩序、そして神の像に造られた人間の責任を、当時の宇宙観、世界観を用いて古代人に語っています。たとえば  「神は大空を造り、大空の下にある水と大空の上にある水を分けられた。」(創1:7)は典型的な例です。


 ですから、現代科学と齟齬があるので、創世記一章は間違いだと言う必要はありません。逆に、現代人が納得しやすいように創世紀一章を現代科学と調和させようとする必要もありません。そのどちらの立場も、聖書の第一の聴衆が古代人であることを認めていない現れと言えるでしょう。


   C.  宇宙観だけでなく

 実は宇宙観だけではありません。聖書は古代人が理解できる言語、古代人が理解できる文学形式、古代人が理解できる文化、古代人が理解できる倫理観、古代人が理解できる神観を用いて、唯一の創造主である神の性質と計画、また、神のメッセージを当時の聴衆であった古代人に伝えた書物です。そして、私たち現代人は、第二の聴衆として、そこから学ぶ努力をするのです。


III.まとめと勧め

 今日の話をまとめます。ガリレオを異端とした17世紀のカトリック教会からはじまり、大地は平らだと信じている福音派の一部の人まで、もし、「聖書の第一の聴衆が古代人であり、聖書は彼らが理解できるように記されている」という極当たり前の前提に立てば、聖書と科学の確執のかなりの部分は解決するのではないでしょうか。

 そしてこの当たり前の前提に立つならば、私たちは「聖書を学ぶ」という召しを真剣に受け止める必要が出てきます。ちょうど、「枕の草子」を正しく理解するには、当時の時代背景や人々の価値観、世界観を学ぶ必要が出てくるのと同じです。

 私たちは第二の聴衆として、共に聖書を学び、キリストを知る知識において共に成長したいと思います。

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©2021 by 島先克臣

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