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聖書シリーズ(2)−聖書と倫理


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2025年1月にファミリーミニストリープロジェクトのイベントにてしつけと体罰に関して講演したものの一部です。


 聖書シリーズの2では、聖書とキリスト教倫理を考えたいと思います。その出発点は、そもそも聖書とは何なのかという問いです。私たちの多くは、聖書のことを「ルールブック」だと考えているかもしれません。


I.  聖書は「ルールブック」?


 聖書は「信仰と生活の唯一の規範」なので、バスケットボールの競技規則集のように、「聖書のすべての命令に従わなければ」と考える。それが「ルールブック型」の聖書観です。全く正しいように聞こえます。ところが実際は問題があるようです。


  A 実際は選択的で、選択基準が明らかではない

 一つの問題は、聖書のすべてに従うと言いながら、実際私たちは聖書の一部だけを選んで従っていて、しかもそれを選ぶ基準が明らかではない、という点です。

 クリスチャンの多くは、十戒はだれでも守るべき教えだと考えます。しかし十戒の次の章には、「自分の父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない。」とあります。現代のクリスチャンはその命令には従いません。

 ある人は箴言(23:13)に基づいて体罰を与えるのですが、申命記にある「強情で親に逆らい…放蕩で大酒飲み」の息子を石打ちにせよ(21:20-21)という命令には従いません。

 私たちは聖書のすべてに従わなければならないと言います。体罰を与えるのは聖書がそう命じているからと言います。ところが実際は聖書の一部だけを選んで従っていますし、その理由を問われても、明確には答えられないのです。


  B 復古調となり、現代の課題に対応できない

 第二の問題点。「ルールブック型」では、古代人に語られたことの中に普遍的に守るべき教えがあると考えるので、絶えず古代の文化を基準にします。古代オリエントでは、奴隷制、一夫多妻、家父長制などが前提でした。そこであるクリスチャンは「奴隷制は聖書的だ」と主張し、アメリカでは内戦にまで至りました。わずか160年前のことです。現代でも保守的なキリスト教の強い地域では、女性の地位が低いのです。聖書に基づいて人種差別するクリスチャンもいます。

 そして、もちろん「ルールブック型」では、原子力、環境危機、グローバル資本主義など、現代の問題になかなか対応できません。

 つまり「ルールブック型」では、キリスト教倫理が復古調になり、かつ、現代の課題に対応しきれないのです。


II.  聖書は矢印?

 では聖書をどのように捉え直したらよいのでしょう。一つ提案があります。「矢印型」です。聖書を「矢印のように世界の完成を指し示す歴史」と見る見方です。詳しくは私の記事(福音の全体像)をお読みください。以下にごく簡単にその流れを申し上げます。


   A    世界の完成を指し示す歴史

 聖書の歴史の大切な出発点は、「神様が創造した天地万物は非常によかった」というものです。世界は平和と豊かさ、正義と愛に満ちたものとして発展していくはずでした。

 ところが人が神に背いたために様相はすっかり変わります。しかし神様は、最初のご計画を諦めるお方ではありません。ノア、イスラエル、ついには、神のひとり子により、教会を通して世界を回復し始めました。

 そしてこの時代の終わりには再臨によって完成させます。その時、全地はイエス様の愛と憐れみで満ちるのです。聖書をとおして変わらない神の御心は、全地がイエス様の愛と憐れみで満ちることです。

 このように「世界の良き創造から始まり、矢印のようにその世界の良き完成を指し示す歴史」、それが聖書だと私は考えています。


   B    聖書の倫理は時代・地域・文化を配慮した発展途上の一適用

 もしそうであるならば、聖書に描かれている倫理はどう考えたらよいのでしょう。それは、それぞれの時代と地域、そして文化を配慮した適用の一つ、しかも発展途上の適用の一つと考えられると思います。

 例えばイエスさまは「一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい」とおっしゃいました。ローマ帝国の属国であったユダヤではローマ軍が駐屯していて徴用があったからです。しかし、同じ1世紀でも、帝都ローマにいたローマ市民にはそのようなものはないので、パウロは一言も言及しません。代わりにパウロはコリントで偶像に献げた肉について教えますが、パレスチナのユダヤ人社会ではそのようなことはあり得ないので、福音書では言及されません。また、パウロより千五百年も前の農村共同体であるイスラエルでは、牛やろばが水溜に落ちた場合の指示がありますが(出21:33)、都市生活者宛に書いたパウロ書簡にはありません。聖書の教えは地域、時代、文化を考慮した一つの適用なのです。

 しかも、聖書の倫理は変化・発展しています。モーセの時代は簡単に妻と離縁できましたが、それは民が頑なだったためだ、とイエス様は解説します(マタ19:8)。「目には目を」とモーセは言いますが、イエス様は「右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」(マタ5:39)と語ります。

 人々が住んでいた時代、地域、そして文化が違うので、適用が違うのはあたりまえです。しかも、神様は、少しずつより良い方向に社会を導こうとされているのです。


   C    イエスさまの愛が全地に満ちる完成した地上の姿を志向して歩む

 ですから私たちは、古代人のために語られた発展途上の一つの適用を見てそれをそのまま守ろうとはしません。その適用の背後にある神のみこころ、聖書が明確に示している方向性、イエスさまの愛が全地に満ちるという変わらないヴィジョン、を捉え、それを自分たちの時代、地域、文化に適用していく、それがクリスチャンの歩みではないかと思います。「聖書は信仰と生活の唯一の規範」であるというとき、それは、古代への一適用を規範とするのではなく、聖書全体が指差している歩みを規範とするのではないでしょうか。



III クリスチャンの歩み ローマ12:1-2

 では、聖書全体が志向している歩みを、現代の日本にどのように適用したらよいのでしょう。それが書かれているのがロマ書12:1-2ではないかと思います。私はこの箇所がクリスチャンの日々の歩み(倫理)を考える上で最も大切で、鍵となる箇所だと考えています。


ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。


 ここに四つの段階があるようです。


1    神の愛を受けて

 パウロはロマ書11章まで、神のあふれるばかりの愛を切々と、ときには高らかに、あるときは絶叫するように述べてきました。12章の冒頭で、それまで述べてきた神の愛を受けて「ですから」と言います。つまり、神の愛を本当に受け止めることが第一歩となります。


2    神を第一にし

 次に、そのに応えて自分のすべてを主に献げるように、自分ではなく神を第一とするようにとパウロは1節で勧めます。


3    愛を基準に

 第三。では自分ではなく神を第一にするとどうなるのでしょう。2節で「心」と訳されているギリシア語は、考え方や価値観、判断基準のことです。それを新たにする、つまり、私たちの価値観と判断基準を、「全地がイエスの愛で満ちる」という先ほど学んだ聖書のヴィジョンに近づけることだ、と私は考えています。


4    自ら考え判断する

 そうすると、その結果として、「何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分ける」ことができるようになる、とパウロは言うのです。

 「見分ける」という言葉に注目してください。神様は私たちをロボットとして造られたのではありません。知性も判断力も、主に似た者として造られました。ですから、愛を基準にして見分ける、自ら判断していく、それが期待されています。そのとき、独りよがりにならないように、科学的知見や一般の方々から学びつつ、 仲間と一緒に考え、祈りつつ判断していくとよいと思います。



IV  終わりに イエス様の愛が全地に満ちるまで

 以上、聖書と倫理というテーマでお話ししました。イエス様の愛が、家庭に、教会に、ご近所に、地域社会に、職場に、日本に、世界に、そして地球環境全体に満ちること、それが神様の願い、救いのご計画だと私は信じています。矢印である聖書が指し示している通りです。ですからみなさんにも、この方向に向かって歩んでいっていただきたいのです。



(完全原稿は「聖書はルールブック?ーしつけと体罰をめぐってー」をご覧ください)

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