アメリカにおける「救い」
- 島先 克臣
- 3月13日
- 読了時間: 9分
更新日:3月15日

序論
ある英国人がアメリカ各地で講演したときに、どこにいっても「地獄」について質問されたと語っていました。アメリカのクリスチャンの方々は、他の地域に比べて「地獄」に特別な思いを寄せています。
英国では福音派内にはゲヘナ(地獄)に関して解釈の幅があります。それは、(1)「罪人は地獄で意識があり永遠に苦しむ」、(2)「罪人は消滅する」、(3)「罪人は地獄で神の恵みから切り離されている」、(4)「最終的にすべての人が救われる」などです。(1)をとるJ.I.パッカー、(2)をとるジョン・ストット[1]とジョン・ウェナム[2]、(3)をとるN.T.ライト、など、意見が分かれていますが、それぞれの立場が異端視されることはありません。世界福音同盟はヨハネ5:29を引用して最後の審判を告白しますが、審判の内容は参加者の間で意見の違いがあるので定義していません。しかし、アメリカの福音派では(1)の地獄観が多数派です。
それに加え救済論の中心に関しても違いがあります。イギリスのジョン・ストットやクリス・ライトの著作、またローザンヌ運動の諸声明を読むと、イギリスや世界の福音派の指導者の救済論は、地上における神の国の広がりに焦点が当てられ、環境や正義への取り組みが適用として言及されています。「地獄からの救い」は含まれているとしても、それが救済論の中心ではありません。ところが、アメリカの福音派では、特に一般の人々の間では、キリスト教の救いの中心は「地獄からの救い」となっています。
読んでいただく前に一言:
「天国・地獄」とキリスト教の関係は古く、複雑な歴史をたどってきています(例:「『天から来て天に帰る』のルーツ」)。地獄の強調も、もちろん18世紀のアメリカで始まったわけではありません。しかし、アメリカでは地獄に特別な強調が置かれ、それが継続し定着しています。そしてその影響は世界宣教によって世界に広がりました。その意味でアメリカの教会の救済観・地獄観は注目に値すると思います。
また、下に挙げた神学者、伝道者たちは、一人を選んでも専門家が一生かけて何冊も本を出版できるほどの著名で大きな貢献をした人たちです。しかし、アメリカにおける地獄の系譜をわかりやすく示すためにあえて単純化した形で提示しています。ご理解いただければ幸いです。教会史や教理史の素人による単純化した概観ですので誤りもあるかもしれません。ご指摘いただければ幸いです。
なお、このエッセイは決して「地獄からの救い」を否定したり軽視したりするものではありません。誤解のありませんように。また、アメリカの福音派の指導的神学者や教会のリーダーではなく、あくまでも一般の人々にとって救いとは何かという点に焦点を当てています。
このエッセイでは、主イエスの十字架による贖いはすべての罪と罰から私たちを完全に救ってくださったことが大前提にあります。
ではアメリカの福音派の一般の人々の間では、どのような経緯を経て「永遠に苦しむ地獄からの救い」が救いの中心として確固たるものとなったのでしょうか?
1. 第一次大覚醒(1730–1745)
ジョナサン・エドワーズ(Jonathan Edwards)は、カルヴィニストとして神の栄光とその恩寵を強調し、アメリカの偉大な神学者として認められています。しかし、彼は同時に第一次大覚醒の中心人物としても活躍しました。特にその代表的説教「怒れる神のみ手の中の罪人」(Sinners in the Hands of an Angry God、1741)で語った次の文は有名になりました。
神はあなたを地獄の穴の上に蜘蛛のようにぶら下げている。神の怒りは火のように燃えており、あなたが地獄に落ちないのは、ただ神の手が支えているからに過ぎない。[3]
この説教では、「人間は今この瞬間も地獄に落とされる」とされました。当時の記録では、聴衆は「泣き叫ぶ、椅子にしがみつく、どうすれば救われるのかと叫ぶ」という状態になったと記されています。この説教は出版されて非常に多くの人々に読まれ、この地獄の恐怖はアメリカの人々の心に深く刻まれるようになりました。
2. 第二次大覚醒(1790–1840)
第二次大覚醒でも地獄が強調されました。チャールズ・フィニー(Charles Grandison Finney)は、神の恩寵を強調した上記エドワーズと違い、正しい手段を用いればリバイバルは起きるとし、人間の側の決断を強調しました。二人の間には大きな神学的な違いがあるのですが、地獄を生々しく描いた点ではエドワーズの流れにそっていると言えるでしょう。フィニーは1840-50年代にオハイオ州にあるオーバリン大学(Oberlin College)で説教し(Sermons of the Gospel Themes)、次のように語ります。
ここにまた一つの光景がある。そこには「火と硫黄の池」があり、失われた罪人たちが渦巻く炎の波に投げ込まれる。彼らは燃えさかる岸辺を叩き、苦痛に舌を噛みしめる。そこでは虫は死なず、火は消えず、「一滴の水」すら届かず「舌を冷やす」こともできない―「その炎の中で苦しめられ」ているのだ。[4]
このように、「福音とは、死後に落とされる恐るべき地獄からの救い」という理解が北米の人々の間で定着していったのです。
3. 第三次大覚醒(1850-1900)
19世紀後半の第3次大覚醒の中心人物ムーディ(Dwight L. Moody)は、確かに地獄を信じてはいましたが、説教では神の愛とキリストの救い、そして、救いへの招きが中心でした。その意味で、20世紀の説教パターンへの橋渡しをしたのかもしれません。その上、ムーディは、改心した人の心から始まって社会に広がる神の国を強調し、貧民街伝道、孤児支援、教育活動、職業訓練などを実践しました。
4. 20世紀:福音派の正統性の指標になる
しかし、20世紀になると再び変化します。リベラリズムとの戦いが全面で出てきたからです。根本主義運動は、近代神学に対して「聖書の無誤性、処女降誕、代理贖罪、肉体の復活、奇跡」の五点を主張しました。しかし、リベラルな教会が、地獄を否定し、社会活動を強調したため、それへの反動として、永遠の地獄を信じること、社会的な働きをしないことも正統信仰の旗印、あるいは境界線として強調されました。
5. 標準化
20世紀前半まで、福音の説明は説教者ごとにかなり違っていました。しかし1950年代以降、福音を短い公式で説明する方法が広まります。それを広めたのはキャンパスクルセードの四つの法則と、ビリー・グラハムです。グラハムのクルセードでは、メッセージは以下のように非常に明確な構造を持っていました。
1 神はあなたを愛している
2 人は罪人である
3 キリストが十字架で死んだ
4 信じれば永遠の命を得る
グラハムは説教最後の決断を迫る場面で、しばしば次のように語りました。「もしあなたがキリストなしに死ぬならば、失われる(滅びる)ことになる(If you die without Christ, you will be lost.)」グラハムは、18世紀や19世紀の伝道説教のように天国や恐るべき地獄を言葉では全面に出しはしませんでしたが、それは前提であり暗に含まれていました。このクルセードの説教は伝道説教の基本として標準化していきました。
6. 終末論との結合
グラハムのもう一つの特徴は、核兵器の拡散と共産主義の台頭、そしてイスラエルの建国という当時の社会状況から、世界戦争と世の終わりが近いことを強調し、また共産主義との戦いのために、救いへの決断を迫ったことです(例「世界は燃えている」)。
「世界は燃えている」の中でグラハムは再臨と天地が新たにされることに触れています。しかし、一般の聴衆や読者には、将来のことよりも今の「救い」が重要だったに違いありません。また、グラハムの説教の中心は晩年に変化し、神の愛の強調と世界平和を求めるものに変わるのですが、初期のグラハムの伝道メッセージ、そして破局的終末論の強調は、福音派に大きな影響を与えていきました。
7. まとめ
ジョナサン・エドワーズ、チャールズ・フィニー、リベラリズムへの反動、四つの法則とビリー・グラハム・クルセードを経て、アメリカの福音派の一般の人々の間では救いの中心は「永遠の地獄からの救い」となりました。それは説教者や著者が全体として伝えたかったものではなく、福音の中心としたものでもなかったかもしれません(特にエドワーズ、ムーディー、グラハム)。しかし、一般の人々にとってはこの側面が広がり定着しました。そしてそれがアメリカの福音派教会において、そして、アメリカの宣教地において、正統信仰の旗印となったのです。
8. 結論
ゲヘナへの言及が一番多いマタイの福音書(7回)においても、イエス様は神の国に52回言及して人々に教えていきました。「この地上で神が王となられた、神を王として生きよ」という教えがイエス様の中心のメッセージでした。
パウロは地獄の恐怖に一切触れずに命懸けで地中海全域に神の国の福音を述べ伝え、イエスを主(キュリオス)として生きよと勧めて教会を各地に建てあげていきました。(結論のここまでの点の詳細はエッセイ「ゲヘナ」参照)。
私はこのエッセイで地獄を否定しているのでもなく、読んでくださっている方の地獄に対する考えを変えていただこうとしているのでもありません。ただ、主イエスとパウロの宣教にならって宣教の中心を神の国にすることをお勧めしたいのです。そして私たち一人一人が、今日という一日を、十字架による罪の赦しを信じて憩い、神の深い愛を味わいつつ神を王として生きていくことを目指したいと思うのです。
注
[1] 「この問いに答えるためには、聖書の資料を改めて検討し、聖書が消滅説の方向を指し示している可能性、そして「永遠の意識的な苦痛」という伝統が聖書が持つ至高の権威に譲らなければならない可能性に対して、私たちの心(単に感情だけでなく)を開く必要がある。」
“And in order to answer this question, we need to survey the biblical material afresh and to open our minds (not just our hearts) to the possibility that Scripture points in the direction of annihilation, and that 'eternal conscious torment' is a tradition which has to yield to the supreme authority of Scripture.”
Excerpts from David L. Edwards and John Stott: Evangelical essentials: a liberal-evangelical dialogue, pp.312-329. (https://www.truthaccordingtoscripture.com/documents/death/judgement-hell.php?utm_source=chatgpt.com)
[2] 「私は、永遠の苦しみというものは、忌まわしく、非聖書的な教義であり、何世紀にもわたり教会の心に重くのしかかってきた恐ろしい重荷であると信じている...」
"I believe that endless torment is a hideous and unscriptural doctrine which has been a terrible burden on the mind of the church for many centuries..."
John Wenham "The Case For Conditional Immortality" taken from Chapter 27 of Facing Hell: The Story of a Nobody, An Autobiography 1913 - 1996 (Carlisle: Paternoster Press, 1998), pp. 229-257 (https://www.wadeburleson.org/files/documents/death/wenham%20john%20-%20the%20case%20for%20conditional%20immortality.pdf?utm_source=chatgpt.com, p.17)
[3] “The God that holds you over the pit of hell, much as one holds a spider…his wrath towards you burns like fire…it is nothing but his hand that holds you from falling into the fire every moment.”
[4] Here is another image. You have a “lake of fire and brimstone,” and you see lost sinners thrown into its waves of rolling fire; and they lash its burning shore, and gnaw their tongues for pain. There the worm dieth not, and their fire is not quenched, and “not one drop of water” can reach them to “cool their tongues”—“tormented in that flame.”
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