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執筆者の写真島先 克臣

対話シリーズNo.5 霊魂不滅

更新日:2022年8月24日



人間観(あん饅型か、ダイヤモンド型か)の違いは、死とは何かという問いと裏表一体の関係にあります。


死とは、魂の肉体からの分離に他ならない。

魂が不死であり不滅であることには疑問の余地がない。


これは、もちろん聖書の教えではありません。これもソクラテスの言葉です(それぞれ『パイドン』64C、106E)。ソクラテスは無実の罪で死刑に処される日、霊魂が不滅であることをさまざまな論理を用いて証明しようとしました。そして、死刑執行人からの毒杯を受けた時、こう言いました。


毒を飲めば僕はもはや君たちのもとには留まらずに、浄福な者たちの幸福のうちへと立ち去るのだ。(同書115D)


「霊魂は不死・不滅である、そして死後、魂は肉体から離れて天に帰る。それが幸いなのだ」と説いて、ソクラテスは気高く死にました。その人間観、死生観、そして最期の有様は、西洋社会全体に、そして西方のキリスト教に、計り知れないほど大きく、深い影響を与えることになりました。


洋の東西を問わず

 「霊魂不滅と天国行き」信仰は、ソクラテスとプラトンだけが提唱した教えではないでしょう。第二バチカン公会議以降に新たになったカトリック要理である『カトリック教会の教え』(新要理書編纂特別委員会編、カトリック中央協議発行、2003)にはこうあります。


人間のいのちがこの世だけで終わるはずはなく、何らかの意味で継続するはずであると考える場合、魂が生き残るとする考え方が、洋の東西を問わず、一般的です。


「人間が死ぬと心も体も消滅するなどということはあってはならない。だから霊魂は不滅で、死後、霊魂は天国にいくのだ」と考えるのは、確かに洋の東西を問わず、徹底的な唯物論者の方々を除いては比較的一般的なのだろうと思います。それは人間のすなおな感情の表れでしょう。


いにしえから

 古代エジプトの時代でも、人は死後、なんらかの形で生き続けるはずだと期待して、王をミイラにしていました。人間は古代から、「永遠のいのち」を求めてきたと言えるでしょう。「肉体は朽ちても、せめて魂だけは天国で永遠に」と期待した結果、自然と生まれてきたのが、「あん饅型人間観=霊肉二元論」だったのです。


では聖書は同じ信仰を共有しているのでしょうか。


(ミイラに持たせた『死者の書』。陰府の世界での振る舞いを指示している)




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