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執筆者の写真島先 克臣

福音の深さ、広さを(2)-ギリシア二元論の影響-

更新日:2023年11月8日

       -Bible & Art Ministriesの機関誌に投稿したもの-

はじめに

このページは、『福音の深さ、広さを(1)』 のページの続きで、そこで触れられた「福音理解の広さ」に関する体験に焦点を当て、詳しく語っています。


何かがおかしい

一九九七年のイギリス、秋も深まったコッツワールド地方にあるチェルトナム市。私は市内の大学院で学ぶ学生で、その日、切羽詰まった思いでキャンパスに向い、大学特別研究員クレーグ・バルソロミュー博士の部屋の扉をたたきました。

私と妻、夏子は、ある疑問を持っていました。なぜ福音派の教会は、「集会出席、献金とデボーション、飲まず酔わず、親切に愛をもって」といった、教会生活と個人倫理しか説かないのか。ライフスタイルも、ノンクリスチャンの中流のそれとあまり変わりがないのではないか、という疑問です。日本でも、イギリスでも、そしてそれ以前にいたアメリカでも教会は不思議と同じでした。例えば夏子は、一九七〇年代から「公害の原因は罪と言いながら、クリスチャンが河川汚染の原因のひとつである洗剤を無批判に使い続けるのはなぜなのか」という疑問を心に持ち続けていましたが、私自身、夏子の疑問に答えることはできず、私たちは、何かがおかしいのだが、どこがおかしいのか分からないというイライラを抱えていたのです。


ギリシア二元論の影響

その年、大学の人文学科は様々なセミナーをシリーズで開いてきましたが、その中心人物は上記のバルソロミュー氏でした。色々な専門家が様々な立場から特別講議をしました。しかしシリーズには、一つのメッセージが貫いていたように思えます。それは、ルネッサンスを通してギリシア思想が西洋に復興し、それが今の西洋文明とキリスト教に深い影響を与えているというものでした。個人主義、物質(消費)主義、霊と肉をはっきり分ける二元論、等です。信仰が個人の心の中と会堂に留まり、それを中々越えられない原因が次第に分かってきました。それはどうも、霊と物質を分け、後者を低く見るギリシア思想の影響らしいのです。

二十歳の時に入信し、牧師また宣教師をして四十を越えた自分自身を振り返ってみますと、確かにその傾向が見えました。教会に加わって何年か経つうちに、私は、「世界の様々な問題の原因は罪なのだから、一人でも多くの人を救いに導いていくことこそが真の解決だ。しかも、目に見えるもの全ては罪の影響を受けていて、最終的には滅びるのだから、救霊だけが永遠の価値がある」と考えるようになっていました。この考えは、ギリシアの思想に実によく似ているのです。そしてこの考えを押し進めますと、この地上でなす唯一の価値あることは伝道であり、他の事はその手段となります。政治に正義を求めること、ビジネスを通して社会に仕えようとすること、よい「物作り」を目指すこと、心を込めて家事育児に向うこと、環境を守ろうとすること、よい音楽や絵画を求めていくこと、その他どんなよいことでも、それ自体では、永遠の意味も価値もない。救霊につながる「証し」になったときだけ、付属的な価値がある、ということになります。そうすると、クリスチャンは、真剣に、心から、確信と喜びをもって日常の営みができなくなってしまいます。伝道と教会生活だけはしっかりやるけれども、政治やビジネス等の残りの全ての生活は、聖書からの指針がないため、どうしても周りに流されていくのです。


聖書の語る救いは?

なる程と思いました。ところが、私の心には次の疑問が出てきました。もし、今の私たち福音派がギリシアの二元論の影響を受けているとしたら、聖書は何と言っているのか、というものです。この疑問は私の心の中で益々大きくなり、ついにバルソロミュー氏の研究室の扉を叩いたのでした。氏は私の今までの歩みと疑問をよく理解してくれ、一冊の薄い本を紹介してくれました。その本は聖書の中から、非常に簡潔に、神の創造の業、人の堕落、キリストを通しての贖いと完成を語っていましたが、それ以前には私が聞いたことのない理解でした。衝撃を受けました。しかし同時に実に納得がいったのです。それ以来、私は少しづつですが、その視点で聖書を読み直しています。



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