top of page

福音の深さ、広さを(3)-「福音の全体像」-

更新日:3月23日


はじめに

 私たち福音派の教会が、政治、ビジネス、芸術、音楽、環境保護等の公の世界に積極的に入っていって変革することに躊躇してしまうのは、私たちのキリスト教理解の根底にギリシア的な霊肉二元論があるのではないか、と前ページ(福音の深さ、広さを(2))で問題提起しまし た。もしそうならば、より聖書に近いキリスト教、救い、あるいは、福音とは、どのようなものなのでしょう。


 キリスト教会では、「福音」という言葉をよく耳にします。その意味は「良い知らせ」です。それは「旧約聖書が約束していた救いがついに成就した」という良い知らせです。ですから、この「福音」を理解するためには、旧約聖書が語る救いの約束が何であるかを理解する必要があります。


旧約聖書の流れ

 ここで、旧約聖書の歴史を簡単に振りかえり、救いの約束がなされた経緯を追っていきましょう。


創造

 創造主は、天と地を造り、そこに草木を生えさせ、また魚、鳥、獣を造りました。最後に神は人を造り、「生めよ、増えよ、地に満ちよ。地を従えよ」(創1:28)と命じました。その意味は、「神を愛し、愛と正義に満ち、他の被造世界を正しく治める共同体で地上を満たせ」というものです。そして、そのような地上のあり方全体を見て、神は「非常に良」いと言いました(創1:31)。神・人・自然界の間の愛に満ちた世界が、「非常に良」かったあり方でした。


堕落

 ところが、最初の人類アダムとエバは、神の命令に背きました。その結果、人の心は歪み、人は死ぬこととなり、自然界は呪われて労働は苦しみとなりました。その後の人類も、神に背き続けたため、地上は偶像礼拝(神との関係)、搾取と戦争(人との関係)、そして環境破壊(地との関係)で満ちています。


ノア

 しかし、神は最初の計画をあきらめませんでした。地上に悪が増大したのを見た神は、地上の悪を大洪水で一掃します。そして正しいノアとその家族を選び、他の動物と共に箱舟に乗せて救い、地上に戻しました。その上で、「生めよ。増えよ。地に満ちよ」と創世記1:28の命令を繰り返します。つまり、アダムとその子孫に出来なかったこと、「神を愛し、愛と正義に満ち、被造世界を正しく治める共同体で地を満たす」という計画を、ノアとその子孫に託すのです。人類に二度目のチャンスが与えられたとも言えるでしょう。ノアの出来事は、「人の罪にもかかわらず、世界を本来の非常に良い世界にする」という神の固い決意の現れなのです。

アブラハムの選び

 しかし、ノアとその子孫も、神の期待にそえませんでした。彼らは全地に広がることを拒んで一つところに集まり、神に反抗して高い塔を建てることまでしました(創11章)。そこで、神は回復に向けて大きな一歩を踏み出します。それはアブラハムという一人の人物の選びです。

 神は「アブラハムの子孫が増えてカナンの地で本来の良い共同体を作る。そして彼らは全世界を祝福することになる」と約束しました(創12:1-3)。この約束は旧約聖書だけでなく、新約聖書まで貫く大切な約束となります。


律法

 アブラハムの子孫であるイスラエル人は、一時エジプトで奴隷状態におかれましたが、神は約束を果たすためにモーセを立ててイスラエルをエジプトから導き出し、カナンの地に導きます。その途上のシナイ山ではイスラエルに律法を与えました。

 その律法には、先ず、神を愛することが書いてあります。次に、奴隷を虐待せず正しく接すること、貧しくなった人を助けることなど、イスラエルの社会が愛と正義に満ちるように命じています。第三に、6日間家畜を働かせたら一日休ませる、6年間土地を使ったら1年休ませる、無益な森林伐採さえ禁じる、というように、自然界も愛し正しく治めるように書いてあります。

 つまり、神はイスラエルに律法を与えて、イスラエルが「神・人・自然との愛の関係に生きる」という「良い世界」に近づくようにと願ったのです。そして、もしイスラエルがこの律法に従えば、神は、イスラエルを祝福し、人々は長寿となり、子孫も増え、実りも豊になると約束しました。そしてそのようなイスラエルの姿は、他の国々に影響を与えていくはずでした。


王制

 神は律法を与えただけではなく、イスラエルに王を立てました。王は、民の心を神に向け、社会正義を追求するという責任が負わされました。それだけではなく、神は「将来現れる特別な王は、全世界の王となって、世界中が、愛と正義と平和で満ちるようになる」とも約束しました。


律法と王制のまとめ

 律法と王制は一つとなって、神に喜ばれる王国をカナンの地に樹立させるものでした。神は、敵からこの国を守り、雨を降らせ、穀物と家畜を豊かに与え、人を幸せにし、長寿を与えると約束しました。そして、この王国によって世界が治められ、全世界が祝福されることになると旧約聖書は語ります。つまり、アダムによって人類にもたらされた罪と死、また自然界への呪いが逆転し、創造本来の非常に良かったあり方が、まずカナンに、そして全世界に回復される。これが律法と王制によって実現されるはずだったのです。


預言書

 ところがイスラエルの王も民も、神の期待に応えることができず、神に逆らい続けました。そのため、ついにはバビロン捕囚という懲らしめを受けることになりました。

 しかし、神はそれでもあきらめることなく、救いを約束します。神はイスラエルの罪を赦して捕囚から解放し、神ご自身が、イスラエルと全世界の王となると約束します。つまり、「人にできなかったことを、神ご自身が成し遂げる。神ご自身が王として、イスラエルと世界を治め、全地を愛と正義、平和と豊さで満たす」というのです。そして、神は、特別なイスラエルの王(メシア、ギリシア語でキリスト)を通し、その約束を果たすとも語りました。

 神が王となった地上の様子は、イザヤ書などに美しく描かれています。イザヤはこの世界を「新しい天と新しい地」と呼び、それは一時的でなく永遠に続くとも語りました。


旧約聖書のまとめ

 以上、旧約聖書の流れを簡単に見てきました。旧約聖書の救いとは、「神がメシアを通して全地の王となり、創造本来の非常に良いあり方を地上に回復すること」です。神は、アダム、ノア、イスラエルの罪にも関わらず、全被造世界を愛し続け、その本来のあり方を回復するという計画を捨てませんでした。そして、その救いの約束をもって旧約聖書は終わります。


 では、この救いは、新約聖書に入るとその意味内容がすっかり変わってしまうのでしょうか。神はご自身が愛を込めて造った世界を消し去るのでしょうか。旧約聖書を通して変えなかった計画を捨て去るのでしょうか。決してそうではありません。


新約聖書の教え

 旧約聖書の時代の後、ユダヤ人は「神が王として治める世界」を、「神の王国(国)」と呼ぶようになりました。そしてユダヤ人は、「メシアが現れて、神の国をもたらしてくれる」と期待して待っていました。そのような時にベツレヘムで生まれたのが、イエスです。

 新約聖書は、


旧約聖書が預言してきたメシア(ギリシア語でキリスト)がついに来た。それはイエスであり、イエスは神の国を地上にもたらした。


と宣言します。イエスがもたらした「神が王である世界(神の国)」は、人の罪が赦され、病いが癒され、悪霊が追い出され、飢えた者にパンが与えられる世界です。人が神を心から愛し、互いに愛しあう世界でした。

 最後にイエスは十字架にかかり、復活し、天に昇り、神の右の座について全世界の王となりました。そして、イエスは、ご自身をメシアと信じる真のイスラエル、つまりキリスト者を通し、ご聖霊によって、神の国を地上で広げ続けています。創造本来の良い世界が回復されつつあるのです。アブラハムへの約束が成就しつつあるとも言えるでしょう。

 イエスが十字架にかかって人の罪を赦し、十字架によって人を罪の奴隷から解放し、十字架で流された血によって万物との和解を成し遂げたのはそのためでした。またキリスト者にご聖霊を遣わしているのもそのためです。

 そしてこの時代の終わりに、イエスはもう一度来て、神の国を地上で完成させます。そして完成された世界は、永遠に続きます。それはイザヤが預言した通りであり、その時こそ、神の創造の計画が完成する時となります。


(以上の流れをもう少し詳しく学びたい方は、聖書を読む会発行の『神のご計画』(A5、50ページ、¥500)という小冊子をご参照ください。)


最後に

  旧約聖書も新約聖書も一貫して語っている救いと福音は、世界が本来の非常に良い世界になること、「全被造世界が回復され、完成することである」と見てきました。


地上で生きる意味

 そして、この福音理解は、今地上で生きることに積極的な意味を与えてくれると私には思えます。例えば、芸術の創作活動を考えましょう。主により頼んで良い作品を生み出そうとする時、それは、証や伝道に役立つかどうか以前に、それ自体に意味があることになります。つまり、キリストの救い自体が、アーティストである神に似せて造られた人間の回復を目指しているので、福音そのものが、よい創作活動を指向しているからです。しかも、その労苦は無駄ではなく、永遠の価値があります。主が再び来られる時、主は私たちの今の労苦を地上で完成させて下さり、それが永遠に続くからです。


生活のあらゆる面で

 これは、夫婦生活、子育て、家事育児、介護から始まり、研究、芸術、ビジネス、物作りから国際政治、そして地球温暖化の問題まで、生活のあらゆる面で言えることです。

 それはファッションにも当てはまります。私と基本的に同じ考えをもっているチャールズ・リングマという人がいます。オーストラリア出身で、私がフィリピンで働いていたアジア神学校(ATS)で何年も教え、カナダ、リージェント・カレッジの宣教学部長となり、今は帰国されています。彼が2001年12月にATSで行った特別講議の中心は次のようなものでした。「伝道と社会的責任という2分化は、キリスト教の幅の広さを二つに絞ることによって狭くしてしまう。福音は、宣教や政治・ビジネスだけでなく、学問、芸術、音楽、子育て等、生活の全領域を変革していく。」しかもリングマは、「総合的、包括的霊性」という言葉を使い、それらの生活全領域の変革が、神との深い交わりのうちになされる、と位置づけています。

 私の興味を引いたのは当時50代後半のリングマの髪型とファッションでした。長い髪を後ろに束ね、髭を生やし、ノーネクタイでスタイリッシュなファッションで講義に現れて私を驚かせました。彼は「贅沢ではないけれども、美しいものを求めるファッション」ということもキリスト教的な「包括的霊性」の一面と理解している、と言うことでした。実生活から遊離した霊性でなく、また生活の一部だけの霊性でもない、実生活の全体を創造性豊かに変革していく霊性が、21世紀の教会と宣教に求められているのでしょう。


21世紀は

 今、世界中の多くの福音派の学者がこの視点で聖書を読み直していて、様々な成果が出て来ています。21世紀のクリスチャンがこの視点に立ち、あらゆる分野で、召命観をもって生き生きと生きていくことを私は夢見ています。


地上の一時的な世界から霊的で永遠な世界へと魂が逃げだすことが救いである、というギリシア的二元論と違い、聖書の思想は『地上の存在から離れた天の世界ではなく、人を常にあがなわれた地上に置く』と(ジョージ)ラッドは強調する。

(Robert H. Mounce, The Book of Revelation, The New International Commentary on the New Testament, ed. F. F. Bruce, Grand Rapids: Eerdmans, 1977, p. 368)



付録:Q&A

 ここで、多くの方々が疑問に思う新約聖書の箇所に関して、簡単に触れてみます。私は個人的に次のように考えています。


主の祈り

 私たちは「主の祈り」の中で、「御国に行かせたまえ」と祈らず、「御国を来らせたまえ」と祈っています。また、「み心が天で行われるように、地にもなさせたまえ」とも祈ります。それは、「神がこの地上を王として治めてください、神の国が地上で広がり完成しますように」という祈りです。


千年王国説

 千年王国説にはいろいろありますが、今まで述べてきた視点は、特定の説を否定したり、支持したりせず、あったとしても一時的な千年王国の後に永遠に続くことになる新天新地の大切さを語っています。どの千年王国説の立場の人も、新天新地を信じています。


中間状態

 人が死んで復活するまでの期間を中間状態といいます。当時の宗教に比べて、聖書は中間状態について詳しく述べていないため、その教えは明確ではありません。中間状態は一時的で不完全な状態だからでしょう。そのため、人は死後、「魂が天にいる」、「地下で眠っている」、「一時的に存在が解消する」などの説に分かれています。


パウロ

 大切なのは中間状態ではなく、パウロが強調するように、キリストの再臨と私たちの肉体の復活です(Iコリ15章)。私たちが切に待ち望んでいるのは、私たちの国籍がある天に行くことではなく、「そこ(天)から主イエス・キリストが救い主として来られる」ことです(ピリ3:20)。またパウロは、肉体だけでなく、全被造世界の贖いを信じています(ローマ8:19以降、コロサイ1:16- 20も参照)。パウロにとって、被造世界は消滅してしまうのではなく、かえって「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります」(ロマ8:21)。


ヘブル人への手紙と黙示録

 ヘブル人への手紙の著者によると、クリスチャンが「憧れていたのは…天の故郷でした。…神が彼らのために都を用意されたのです」(11:16)とあります。この都とは、「生ける神の都である天上のエルサレム」(12:22)で、「来たるべき都」(13:14)です。黙示録は、この「来る」瞬間を次のように象徴的に描いています。


私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」(黙21:2-4)


 それ以降の箇所には、神と小羊が、新しいエルサレムから地上を治める描写が続きます。ヘブル書の記者は、後の日に地上に降りて来る聖なる都を待ち望むように私たちを励ましています。私たちの目の涙がことごとくぬぐい去られるのは地上です。

 ここで心に留めていただきたい大切な点が二つあります。


1. 第一は、新天新地が天から降りてくるのではないことです。天から降りてくるのは新しいエルサレムです。御子によって和解させられたこの地に、父と子が来てくださるのです。


2. 第二は、この新天新地は永遠に続く点です。「新天新地の完成の後、クリスチャンは天国で神だけを見つめ、神と神秘的に一体となって過ごすので、目に見える世界は意識から消え去る」とは、書かれていません。クリスチャンは、地上を「世々限りなく王として治め」ていくのです(黙22:5)。(この点に興味ある方は、「天から来て、天に帰るのルーツ」そして、「至福直観」をご覧ください。)


ヨハネ

 ヨハネの語る永遠の命とは、終わりの日に肉体をもってよみがえる命です(ヨハネ5:28-29、6:40、54)。

 またイエスは、「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです」(ヨハネ14:3)と言いました。主が再び来られる時、主は私たちを肉体をもってよみがえらせ、地上におられる主のみ元に住まわせて下さいます(黙21、22章)。


ペテロ

 ノアの洪水によって当時の天地は清められましたが消滅しませんでした。同様にペテロは、今の天地が消えてなくなると言っていません。ノアの時に地は水で清められましたが消滅しませんでした。そのように、今の天と地は火できよめられ、罪と悪は一掃されて新しくされますが、消滅しません。ペテロ自身も願っているのは天地の消滅後に天国に行くことではなく、「万物が改まる」(使3:20-21)こと、つまり、天地に正義が宿ることを願っているのです(IIペテ 3:13)。


「天地は消え去ります」という翻訳、また、第二ペテロ3:10の釈義と翻訳、またそれ以外の新約聖書の様々な箇所に関して、あるいは、旧約聖書において死後魂が天に行くことを示すと思われている箇所に関してより詳しく知りたい方は、本ウェブサイトのエッセイをお読みください。目次を見ると関心のあるエッセイを見つけやすくなります。「エッセイの目次

閲覧数:164回2件のコメント

最新記事

すべて表示
記事: Blog2 Post

©2021 by 島先克臣

bottom of page