top of page

ともに働いて益とする

更新日:4月23日



 

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。ロマ書8:28(新改訳2017)

 

 

初めに

 私たちが突然の病や事故に遭って苦しむとき、周りのクリスチャンの中には上記の箇所を引用して励まそうとしてくださる方がいます。確かに、「今は苦しくても、それが将来益に転じるのだ」という考え方は、個人が信仰生活を送る上で励ましになります。しかし、ロマ書8章の文脈全体を見ると、一個人の信仰生活にとどまらず、壮大な救いの完成が視野にあることがわかってきます。


I ロマ書8章の文脈

 ロマ書8章の前半を概観しましょう。ロマ書8章の中心的メッセージの一つは、いわゆる聖化論です。1節から15節までは、次のようにまとめることができるでしょう。


私たちにはご聖霊が与えられているので私たちは神の子どもとされている。だから、私たちには罪との厳しい葛藤はあるが、聖霊の助けによって罪に打ち勝って、善い行いをすることができる。


続いてこの時代の終わりのことが語られます。16節から18節でパウロは、


私たちが信仰によって義とされ神の子どもとされていることは、世界全体の相続人とされていることだ。つまり、将来、新たにされる世界(新天新地)を受け継ぐことになる、それは栄光あることなのだ。


と述べています。そして18節から27節では


ただし、今は、どう祈ったら良いかわからないほどの苦しみに直面し続けていて、ご聖霊も言葉にならないうめきをもって執りなしてくださっている。被造世界は人間の罪の故にうめいていて、世の終わりには滅びの束縛から自由になることを待ち望んでいる。私たちもうめきつつ、体の贖われる かの日を待ち望んでいる。


とパウロは語ります。

 ここで注目したいたい点が三つあります。


 第一に、聖化が、苦しみやうめきと一つになっている点です(「カルヴァンの救済の神学」春名純人著、教文館、2023、参照)。聖霊の助けによって私たちが御子の像に近づいていくというプロセスは、パウロにとって苦しみとうめきが伴うプロセスです。その苦しみとは、クリスチャンが日々直面する具体的なあらゆる苦しみが含まれるでしょう。しかし、その苦しみは、御子ご自身が被造世界を救いに導くために苦しまなければならなかったこと、また、御子が今でもそのために産みの苦しみをしていることと無関係ではありません。なぜなら、御子が私たちを、被造世界全体を救いに導く同労者として招いているからです。実際パウロは35節で「苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」と、パウロにとっての苦難を述べていますが、その苦難は恐らく自らの宣教活動における苦しみを思い描いていたのでしょう。つまり、私たちクリスチャンの苦しみは、御子の十字架上の苦しみ、現在世界を完成に導こうとしている御子の苦しみと直接繋がっているのです。


 第二は、その苦しみとうめきが、この時代の終わりに「栄光と自由」に変わるという希望です。全てのことが益となると言った時、それは確かに個人の人生の中で起こりうる個人の益が含まれるでしょう。しかし、究極的な「益」は、将来、私たち神を愛する者たちが共同体として受ける栄光です。


 第三。その栄光という救いの完成は、個々人が天上で受けるものではなく、被造世界全体が待ち望んでいるもの、全被造世界を巻き込むものです。被造世界は、この時代の終わりに「神の子どもたちの栄光の自由にあずかる」ことを待ち望んでいるのです。



II 神の像と栄光

 さて、そのような27節までの流れの次に来るのがこのエッセイが取り扱う28節です。しかし、ここで、それを飛ばしてその次の29-30節を見てみましょう。その箇所は


私たちは、御子の像(かたち)と同じ姿にあらかじめ定められていて、義と認められ、栄光を与えられた。


と要約できます。

  ここで、「御子の像」の意味を考えてみましょう。「像」とは、創世紀1:26-28の「神の像」と同じ言葉です(LXX参照)。神の像は、「神が造られたこの良き世界を愛情深く正しく治める王の務め」を指す言葉です(エッセイ「神の像」参照)。ですから、この「栄光」とは、詩篇8:4-8にある、万物を治める栄光ある立場を指すと考えられます(注1)。


あなたは 人を御使いよりわずかに欠けがあるものとし

これに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。

あなたの御手のわざを人に治めさせ

万物を彼の足の下に置かれました。

羊も牛もすべて また野の獣も空の鳥

海の魚 海路を通うものも。


 しかし、私たち人類は、この神の像としての務めを罪の故に果たせませんでした。そこで、この世の終わりに、御子が「終末論的アダム」(注1)として来られました。世の終わりに御子が罪のない神の像として来られ(初臨)、王として世界を正しく治め始められた(現在)、そして、私たちはその御子の像に聖霊によって回復されつつあります。つまりロマ書が語る私たちに与えられた栄光とは、万物を正しく治める神の像としての栄光であり、終末において新天新地を相続するときに回復される栄光だと言えるでしょう。私たちはその栄光ある立場を回復しただけでなく、その完成を先取りしていると言えるのです。

 私たちは「義認・聖化・栄化」を非常に個人的で、天に向かうものとして捉えてきたと思います。しかし、ロマ書の文脈では、個人的なものではなくて共同体的・全被造世界的であり、天に向かうものでなくて地上世界の完成を志向しているのです。


III     要約

 ロマ書8章前半の流れを要約すると次のようになるでしょう。


私たちは現在、世界を正しく治めるために召され、そのために善い行いをしようと聖霊によって奮闘している。また苦しみうめいている。しかし、私たちは、この時代の終わりには、神の子どもであるがゆえに神の世界を相続し、地上を正しく治めることになる。これこそが、栄光あることである。天地創造からその完成に至る神の救いの働き全体が神のご計画(目的)なのだ。


 以上、8章の前半を見て、神のご計画の意味を探ってきました。私たちの義認と聖化と栄化は、全被造世界を救うという神のご計画の中に位置付けられることが見えてきたと思います。


IV   クリスチャンにとって

 このような文脈にあるのが28節です。このような神のご計画に従って召された私たちクリスチャンにとって、神が全てのことを働かせて益として下さるとはどのような意味になるのでしょう。そこには、「自分達にとって全てのことがうまく運ぶ」ということ以上の壮大な視点があります。つまり、ありとあらゆる苦しみやうめきにもかかわらず、いや、そのような苦しみやうめきでさえ用いて、それを益として下さる、しかも、究極的には私たちが全世界を正しく治めるという神のご計画に向けて益として下さるということなのです。


 ここで、一言28節の訳について申し上げます。28節は本文上、文法上難解な節で、色々な訳が考えられます(注2)。

 『改訂版聖書』(English Revised Version、1885)という欽定訳の改訂版があり、そのロマ書8:28には、有力な読み方として次のような注が加えられています。


God worketh all things with them for good.

(神は彼らと共に働いてすべてのことを益としてくださる。)


 そのRVを更に改訂した『改訂標準訳』(Revised Standard Version, 1952)では、8:28を次のように訳しています。


We know that in everything God works for good with those who love him, who are called according to his purpose. 


RSVを参照したと考えられている口語訳も次のように訳しました。


神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、私たちは知っている。


 「共に働く」(スネルゴイ)という言葉は「〜と共に」という言葉が伴うことが多いのですが、28節ではそれは省かれています。それを文脈から補うと、「神のご計画にしたがって召された人たち」である可能性があります。主語は、もちろん27節の聖霊か、29節の神の可能性があります。現在の翻訳聖書では、この解釈は主流ではありませんが、RSVと口語訳の可能性は排除できないのではないかと思います。


 どの訳にしても、広い文脈を見れば、神のご計画は明瞭です。私たちが神の像として全地を正しく治めるようにというものです。これは創造本来の計画でした。そのために、私たちを義と認めて世界の相続人としてくださいました(義認)。現状は、確かに苦しみとうめきに満ちているのですが、それをも用いて神は聖霊により私たちに善を行わせ、世界をよりよく治めるように助けてくださっています(聖化)。そして、かの日には、私たちはキリストと共に栄光のうちに世界を治めるようになるのです(栄化)。


神は聖霊により、私たちと共に働いて、今の苦しみにも関わらず、いや、苦しみをも用いて、この救いの完成に向かって全てを益としてくださる。


これが、ロマ書8:28の意味、8章前半の励ましと希望なのではないかと、私は考えています。


ロマ書8章における「義認・聖化・栄化」に関しては以下のエッセイ参照。「義認・聖化・栄化を再考する-ロマ書8章を中心に-


 

注1 James G. D. Dunnは、Romans 1-8, vol. 38A, Word Biblical Commentary, (Thomas Nelson, Inc., 2015)、p.495において次のように記している

パウロは、キリストを終末論的アダムとして見ている。すなわち、復活のキリストは、栄光と誉れの冠を戴き、本来アダムに与えられていた万物を治める権威が与えられているのである(詩8:4-6、1コリ15:20-27参照)。

注2  Joseph A. Fitzmeyer, Romans, (The Anchor Yale Bible, 1993), p.523参照。

閲覧数:146回0件のコメント

最新記事

すべて表示
記事: Blog2 Post

©2021 by 島先克臣

bottom of page