神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。
I 旧約聖書の人間観
創世紀2:7は、聖書が人間をどう見ているかを示す大切な箇所です。その意味を探る前に、まず確認しなければならないのは、人間を「霊魂と肉体」に二分割することは、典型的なギリシア思想であり、旧約聖書には見出されないということです(詳しくは『「天から来て、天に帰る」のルーツ』参照)。旧約聖書では、人間は肉体を持った存在で、知性や感情、神を思うといった諸々の側面を持っていますが、それが各部分には分割されてはいないのです。
あまり良いたとえではありませんが、ギリシア的な人間観は、「あん饅」のようなものです。肉体という「饅頭」の内側に、まったく異質な霊魂という「あんこ」が入っているという考え方です。旧約聖書の人間観はどうかというと、ダイヤモンドのようです。見る角度によって現れる色が違いますが、色々な部分に分割はできません。人間は肉体とその運動能力、外見上の美しさ、知性、芸術性、感情、意志、神を思う宗教心など、実に多くの側面があり、それが、旧約聖書では体、美しさ、心、思い、考え、霊、魂などと訳されています。ヘブライ語の「ルアハ」は、「風」、「息」、「霊」、「魂」などと訳されています。そのため、ギリシア的な霊魂であると誤解されていますが、ルアハにはそのようなギリシア的な意味はありません。ヘブライ語では、「ルアハ」も含めて、一体である人間が持つさまざまな側面です。旧約聖書では、人は「あん饅」ではなく、「ダイヤモンド」なのだ、と覚えてください。
II 今までの解釈
長い間、多くのクリスチャンは、この2:7を読んで、「土で造られた形に霊魂を吹き込まれて、そが人となった」と考えてきました。それを表すと次のようになります。
神である主は、その大地のちりで形を作り
その鼻にいのちの息(すなわち、霊魂)を吹き込まれた。
それでそれは人となった。
実は上記の文章は、聖書のようですが、大きな違いがあります。実際の2:7とよく比較してください。
III 創世紀2:7の意味
A 息が吹き込まれる前から人は人
違いの第一は、聖書によれば、いのちの息が吹き込まれる前に、人は人として神に造られていたことです。人は100%人でしたが、息をしていませんでした。つまり生きていませんでした。そこで、神は人にいのちの息を吹き込んで、息をするもの、生きるものとしたのです。ですから、著名な五書研究家であるゴードン・ウェナムは、創世紀2:7の注解でこう述べています。
この節が「神は人の鼻に、命の息を吹き込んだ」というとき、神が彼に息をさせることによって生きるものにした、ということを主張している。[1]
この息は、命を与える息であって、ギリシア的な霊魂ではありません。それは、ゴードン・ウェナムだけでなく、テレンス・フレットハイム[2]やヴィクター・ハミルトン[3]などの現代の主要な創世紀の注解者が支持しています。
B 動物も持つ息と霊
違いの第二。2:7の「息」は「人間だけに与えられた霊魂だ」と考えられてきました。ところが、「息」と訳される「ネシャマ」、あるいは「霊」や「魂」と訳される「ルアハ」は、人間だけではなく動物にも与えられています。たとえば、ノアのときに全地が水で覆われた様子は、7章でこう描かれています。
こうして、地の上を動き回るすべての肉なるものは、鳥も家畜も獣も地に群がるすべてのものも、またすべての人も死に絶えた。いのちの息(ネシャマ・ルアハ)を吹き込まれたもので、乾いた地の上にいたものは、みな死んだ。(創7:21-22)
この箇所ではめずらしく、ネシャマとルアハの両方が一緒に使われて「息」と訳されています。ここでわかることは、「息」は人間だけに与えられた「霊魂」ではないということです。家畜も獣も人間も、同様に「いのちの息」が吹き込まれて生きていた、とされています。
詩編104編は、動物と人間の両者について次のように述べています。
あなたが御顔を隠されると彼らはおじ惑い
彼らの息(ルアハ)を取り去られると
彼らは息絶えて自分のちりに帰ります。(104:29)
つまり、息、あるいは、霊と訳されている、ネシャマ、あるいは、ルアハが、動物や人間から取り去られて、それが与え主の神のもとに戻ると、動物も人間も息絶えて土に帰ります。
両者がともに土に帰る理由は、次のように、人間も動物も土から作られているからです。人に関しては、
神である主は、その大地のちりで人を形造り(2:7)
とあり、動物に関しては
神である主は、その土地の土で、あらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を形造って(2:19)
と書いてあります。他の箇所でも同じことが言われています。例えば、ヨブ記34章には、こうあります。
もし、神がご自分だけに心を留め、その霊(ルアハ)と息(ネシェマ)をご自分に集められたら、すべての肉なるものはともに息絶え、人は土のちりに帰る。(ヨブ34:14-15)
息、あるいは、霊は、人間の霊魂ではありません。それは、動物と人間に命を与えるものなのです。動物も人間も、それを生かしておられるのは神ご自身であることを示し、動物も人間も土の塵を材料に神が造られたことがわかります。詩編146編でもこうあります。
霊(ルアハ)が出て行くと、人は自分の土に帰り
その日のうちに彼の計画は滅び失せる。(詩146:4)
C アダムとアダマー
ここで、創世紀2章7節で「人」と訳された「アダム」に一言触れます。ヘブライ語では、神は土を指す「アダマー」のちりで「アダム」を形造ったとあります。一種の言葉遊びですが、意味があります。アダムは、土と訳されたアダマーと関係があるのです。ヘブライ語聖書を読んでいた古代の人にとって、「人は土から作られた存在であること」が命名によっても強調されています。彼らは「人間の本質は霊魂であって天から来たもの」とは、発想すらしなかったでしょう。
D 人間だけが持つ知性と感情と意志?
以上、聖書から述べてきましたが、最新の植物学、動物学の発達によって明らかになってきている大切な事実があります。ギリシア的な人間観を共有する近代人の多くは、動物には知性も感情も意思もない、ただ、本能に従っているだけだと考えてきました。私もそうでした。しかし、その考え方は科学の発達によって少しずつ崩れて来ているようです。興味ある方は、ペーター・ヴォールレーベン著『動物たちの内なる生活−森林管理官が聴いた野生の声』(早川書房、2018)をお読みください。同じ著者による『樹木たちの知られざる生活–森林管理官が聴いた森の声』(早川書房、2017)では、森の木々が互いにコミュニケーションを持ち、しかも助け合っていることを語っています。
E 動物と人間の違いはどこに?
もちろん、動物に比べて、人間の言語コミュニケーション能力や知性などは、はるかに優っているでしょう。しかし、能力の差が本質的な違いではありません。では、動物と人間の本質的な違いはどこにあるのでしょう。
それは、「人間だけに霊魂が与えられている」からではありません。それは、旧約聖書が語っていないことです。また、今まで見てきたように、人間だけに「命の息」が与えられているからでもありません。動物にも与えられているからです。ゴードン・ウェナムは創世紀2:7の注解で、動物と人間の本質的な違いについて次のように述べています。
「命の息」を持っていること、あるいは、「生きもの」であることによって、人と動物が区別されているのではない。動物も全く同じ言葉で描かれているのだ。創世紀1:26-28は、人だけが、神の像に造られて、動物を治める権威が与えられていると述べている。それによって、人の独自性が主張されているのである。[4]
動物と人間の本質的な違い、それは、人間だけが「神の像」として造られたことにあります。つまり、人間だけが、地球全体を愛情深く、かつ正しく治める「王としての立場と役目がある」ということです。人間の優れた能力と資質は、全地の王としての役目を果たすために与えられている、と言えるでしょう。
IV まとめ
このエッセーをまとめます。
第一に、創世紀2:7の「息」は、霊魂ではありません。神から与えられる命を表しています。息が吹き込まれる前も人は人でした。息が吹き込まれて、人が生きるものとなったのです。
第二に、この「息」は、動物にも与えられていて、動物を生かしています。人間だけに与えられたものではありません。
第三に、動物にも知性や感情、また意思がありますが、人間は特別に優れています。それは、神の像、すなわち全地の王として、被造世界を愛情深く、正しく治めるためです。今まで、「神の像の本質は霊魂にあり」と考えられてきましたが、神の像とは、王としてのこの立場と役目であり、そこにこそ、動物との違いがあり、人間の本質があるのです。
最後に申し上げます。人間は、長い期間、自分だけが特別だと考えて他の被造世界を下に見、利用し、踏み躙ってきました。しかし、それは罪の結果であって、人間本来の姿ではありません。人間は、同じ土から作られたものとして、また神から同じ命を与えられているものとして謙遜になる必要があります。しかし、謙遜であると同時に、正しい王としての責任を果たさなければなりません。今、被造世界は、ロマ書8章が語るように、人間の罪のゆえに、うめき、痛んでいるからです。
[1] Gordon J. Wenham, Genesis 1-15, Word Biblical Commentary, Vol. 23A (Thomas Nelson Publishers, 1987), 60. [2] Terrace Fretheim, The Book of Genesis, The New Interpreter’s Bible vol. 1 (Abingdon Press, 1994), 349-350. [3] Victor P. Hamilton, The Book of Genesis Chapters 1-17, New International Commentary on the Old Testament (Eerdmans, 1990), 158-159. [4] 前掲書60.
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