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天地は消え去ります

更新日:2023年10月26日



初めに

 一部のキリスト教会では、「最後には、天地は消滅する」と考えられています。その証拠として挙げられている聖句が、マタイの福音書24章35節などの「天地は消え去ります」であり、また、第二ペテロ3章10節の「天地は消え去り」という言葉です。はたして、この言葉は、本当に天地が消滅するということを教えているのでしょうか。


I 主は被造世界をも贖われた

 その検討に入る前に、聖書全体を振り返ってみましょう。被造世界は神の慈しみを受けながら、非常に良いものとして造られましたが(創1:30)、人間の罪の故に呪われてしまいました(創3:17)。

 ところが、だからといって、旧約聖書には、被造世界が消滅するとは記されていません。そこに記されているのは、世界が呪われた状態から解放され、刷新されるという終わりの日の希望です(例:イザ11章)。

 では被造世界はどのように呪いから解放されるのでしょう。それを明らかにしたのは新約聖書です。被造世界は、イエス・キリストの十字架の血によって和解させられたのです。


神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。(コロ1:19-20)


 ですから被造世界は切実な思いで、滅びの束縛から解放される日を待ち望んでいます(ロマ8:19-22)。イエスはご自身の血によって、人間だけでなく、全被造世界の救いを成し遂げました。この事実は、計り知れない重さを持っています。造り主である神は、ご自分が造られた世界を愛しておられるのです。


II「天地は消え去ります」

 ではマタイ24章35節はどのように理解したら良いのでしょう。次のように記されています。


天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。


 この「消え去る」と訳されたギリシア語はパレルコマイという動詞で、原語の意味は「過ぎる」、「過ぎ去る」、「過ぎゆく」というものです[1]

 そのため、確かに「消え去る」という意味にもなります。例えば、「富んでいる人は草の花のように過ぎ去って行く」(ヤコ1:10)とありますが、ここでは、富んでいる人は、はかなく消えてなくなるという意味でしょう。

 しかし、この言葉の多くは、原語本来の意味のように、「過ぎる」、「過ぎ去る」と訳されます。例えば「断食の日もすでに過ぎていた」と使徒の働き27章9節にあり、イエスはゲッセマネでこう祈りました。


わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。

(マタ26:39)


では、懸案の箇所、マタイ24章35節はどう訳すべきでしょうか。興味深いことに、直前の34節にも同じパレルコマイが出てきます。


まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。(マタ24:34)


そのため、英語圏でもっとも広く使われている三つの英訳聖書ESV、NRSV、NIVでは両節ともにpass away、「過ぎ去る」を当てています。つまり、この三つの聖書では、34節で「この時代が過ぎ去る」と訳し、35節でも「天地は過ぎ去る」と訳しているわけです。この英訳によると、「この時代」と「天地」が並行関係にあることが分かります。つまり、「この時代、ならびに、この天地が過ぎ去る」ということになります。罪と悪と悪魔の支配下にあった今の時代と現在の天地が、神の国の到来によって新たな時代、新たな天地に移行するという意味に取ることができます。ドナルド・ハグナーも、この節に関して、「現在の秩序のすべてが過ぎ去るが、イエスの言葉は変わることはない」[2]と注解しています。

 つまり、現在のあり方や秩序は新しくされるが、天地そのものは消滅することはないのです。この点は、クリスチャンにも当てはまるでしょう。パウロの言葉に


その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って(パレルコマイ)、見よ、すべてが新しくなりました。(IIコリ5:17)


とあります。クリスチャンは、古いものが過ぎ去って新たにされましたが、消滅していません。それと同じように、今の天と地のあり方は過ぎ去り変化するのですが、消滅しないのです。

 どちらがよりふさわしい解釈でしょうか。それは、今まで述べてきた聖書全体の教えと調和しているほうがより良いでしょう。この問題はルカ16章17節の「律法の一画が落ちるよりも、天地が滅びるほうが易しい」にも当てはまります。この「滅びる」の原語もパレルコマイです。


III「天は消え去り…地は…なくなってしまいます」

 では、第二ペテロ3章10節はどうでしょう。


しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。


とあります。ここでも同じパレルコマイが「消え去り」と訳されています。また「地は…なくなってしまいます」とも記されています。この箇所を解釈するときに大切なのは、聖書全体の教え、直前の文脈、そして聖書の文学表現の特徴です。


A 聖書全体の教え

 聖書全体は、今の天地を刷新することは述べていても消滅するとは教えていません。この箇所を書いたペテロ自身も使徒の働き3章20節から21節で、イエスが再臨する時に「万物が改まる」と語っています。改まるのであって消滅するのではありません。旧約聖書に親しんできたユダヤ人ペテロにとって、神が世界を消滅させるという教えは思いつくことさえできなかったことでしょう。旧約聖書を貫いてきているのは、「神が世界を創造し、この時代の終わりに罪を一掃して世界を新たにする」という約束でした。


B 直前の文脈

 直前の文脈はどうでしょう。ペテロがこの箇所を語る前に論じているのは、ノアの洪水です。


そのみことばのゆえに、当時の世界は水におおわれて滅びました。しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。(3:6-7)


 ノアの洪水によって「当時の世界は水におおわれて滅びた」とありますが、ここで明白なのは、世界は消滅しなかったことです。つまり、ノアの洪水の時も、これから訪れる裁きのときも、滅びるのは「不敬虔な者たち」、あらゆる罪と悪であり、天地は消滅しません。それゆえ、ペテロは悔い改めを迫っているのです。


C 文学表現

 第三は文学表現です。聖書は大きな変化を天地異変の言葉を使って表現します。ペテロは、詩篇90編4節を参照しながら第二ペテロ3章8節を述べたようです。それと同じように、この3章10節では、そしておそらく、前述のマタイ24章35節もそうだと思いますが、旧約聖書のいくつかの表現を意識しているようです。例えばイザヤ書51章6節にこうあります。


目を天に上げよ。また、下の地を見よ。まことに、天は煙のように消え失せ、地も衣のように古びて、その上に住む者はブヨのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義は絶えることがない。


クリストファー・サイツはこの節を注解して次のように述べています。


救われたシオンの子らにとって…新しい時代が来ようとしていることを示している[3]


確かに、バビロニア帝国の滅亡といった驚くべき破壊的なことは起こります。しかし、文字通り天地が消滅すると言っているのではありません。救われたシオンの子らにとっては、回復と希望の約束なのです。実際、直前の51章3節にはこうあります。


まことに、はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠をの園のようにする。そこには楽しみと喜びがあり、感謝と歌声がある。


 さばきによって悪は滅ぼされますが、被造世界は消滅するのではなく回復され、シオンは歓喜に踊ります。つまり、ユダヤの文学技法では、想像も超える社会の変化を天変地異の言葉で表したのです。


D「地と地にある働きはなくなってしまいます」

 では、第二ペテロ3章10節にある、地は「(燃えて)なくなる」(カタカイオー)という言葉はどうでしょう。新改訳2017には注があり、異本として「暴かれます」(ユーリスコー)と記してています。確かに、その二つが有力な写本なのですが、実はこの箇所には、それ以外にもさまざまな写本があり、新約聖書の中でも最も判断が難しい箇所の一つとされています。ただし、NIV、NRSV、ESVという主要な英訳聖書は「暴かれます」(ユーリスコー)をオリジナルに近いと判断して訳しています。それが現代の聖書学の傾向なのでしょう。では、地が暴かれるというのはどのような意味なのでしょう。


 リチャード・ボーカムも、「暴かれます」(ユーリスコー)がオリジナルと判断して、次のように解釈しています。


ここには裁き主である神が、地とその業を発見されるという意味合いがある。それは神と地の間にある天が焼かれるとき、地とその業が神の目から見えるようになるという意味だ、とウィルソンは提案している。この有様は、終末の裁きのときに神から隠れようとする悪人の姿(イザ2:19、ホセ10:8、黙6:15-16)と皮肉な対照をなしている。[4]


 つまり、この節は、地上の悪が暴かれることを意味しているというのです。この節を訳し直すとこうなります。


しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて過ぎ去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはあらわにされます。


そしてボーカムは、天地が消滅するという解釈には反対しています[5]


E まとめ

 以上のことから何が判断できるでしょう。それは、第二ペテロ3章10節で述べているのは、天地の消滅ではなく、天と地が火による清めを通って新たにされるということです。だからこそ、ペテロは、不敬虔ではなく、「敬虔な生き方」(3:11)を勧めているわけです。そして何よりも、ペテロ自身が待ち望んでいるのは、天地が消滅して、魂が天に上ることではありません。今の天と地が清められて「義の宿る新しい天と新しい地」(3:13)となることを待ち望んでいるのです。


IV まとめ

 神は心を込め、愛を注いで天地を創造しました。人の罪によって呪われましたが、ついに神は御子の血をもって天地と和解してくださいました。そして、今に至るまでそれを支え、御子の再臨の時には天地から完全に悪を除いて義に満たしてくださいます。被造世界自体も、その日をうめきつつ待ち望んでいます。天地は決して消滅することはないのです。

 最後にヘンリー・シーセンという組織神学者の言葉を引用して終わります。


天も地も、消滅することはない。サイスは、次のように述べている。

地と天が過ぎ去ることを語っている箇所で…原語は決して、存在の解消を意味するものではなく…、一つの場所または状態から他に移ること…、時間的には、かつて存在していた出来事や状態が、他の出来事や状態に道をゆずって、過去のものとなることを意味する。これが、地と天に用いられた場合、大きな変化を意味することは明白であるが、完全な消滅とか、物質が存在しなくなることを意味するというのは、聖書にも古典ギリシア語にも、証拠となるべき明らかな例がないのである。この中心思想は移行であって消滅でない。[6]


付記1:「天地は消滅する」と一部の方々に考えられてきた背景には、目に見える世界は悪であり汚れているとするギリシア思想が影響した可能性があります。詳細はエッセイ「『天から来て天に帰る』のルーツ」をお読みください。


付記2:今の天地が再臨によって完成した後、つまり、黙示録21-22章の出来事の後に、「人間は神だけを見つめ、神が全てとなる」と言って、被造世界が人間の意識から実質的になくなる立場があります。しかし神だけを見つめて神と一体となるのは新プラトン主義の神秘主義的理想であって、聖書自体からは導き出せないものです。詳しくは同じく上記の「『天から来て天に帰る』のルーツ」、ならびに「至福直観?」をお読みください。

[1] A Greek - English Lexicon of the Septuagint, Second Edition (Deutsche Bibelgesellschaft, 2003). [2] Donald A. Hagner, Matthew 14-28, Word Biblical Commentary vol. 33B (Thomas Nelson, 2006), 716. [3] Christopher R. Seitz, Isaiah, New Interpreter’s Bible vol. 6 (Abingdon Press, 2001), 448. [4] Richard Bauchham, Jude, 2 Peter, Word Biblical Commentary vol. 50 (Thomas Nelson, 2006), 319. [5] 前掲書320. [6] ヘンリー・シーセン『組織神学』(島田福安訳、聖書図書刊行会、1989)、837.

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