プラトンが言うように人間は…天から生まれたものである[1]
わたしも…神のもとから追放され流浪する者。…わたしたちすべてが、この地上に移住した客人であり、追放された者であるということだ。…魂は、…追放され彷徨(さまよ)っているのだ。そして魂は、何という名誉から、どれほど大きな幸福からこの地へと移住してきたのか、何も覚えておらず、何も思い出さないため、その後、大波の打ち寄せる島で、プラトンの言う「牡蠣(かき)のように」身体に縛り付けられているのだ。[2]
この著作家の名前は、プルタルコス。ギリシアの著作家で、デルフォイ神殿というギリシア人にとって中心的な神殿と深く関わり、そこで神託を受けることを人々に勧めていた人です。
プルタルコスによれば、人の霊魂は天で生まれ、そこで幸いな状態だったのだが、そこから追放されて地に落ち、今は哀れにも、汚れた肉体に「牡蠣(かき)のように」縛り付けられている、と見ています。プラトンの思想が、400年も受け継がれ、広く受け入れられていることがわかります。
プルタルコスはパウロと同時代の人でしたが、パウロと全く違う考え方を持っていました。プルタルコスに見られる人間観と聖書の人間観はどう違うのでしょう。
あん饅型かダイヤモンド型か
プラトンらの人間観は、わかりやすく言うと「あん饅型」です。まんじゅうの中に、まったく異質のあんが入っているように、肉体の中に、まったく異質の霊魂が囚われていると考えます。
それに対し、聖書は「ダイヤモンド型」です。ダイヤモンドは一つでも、非常に多くの面があります。人間も一つですが、肉体的側面もあれば、もちろん、知性、感情、意志もあり、それに加え、芸術、音楽、文学、言語、社会性、宗教性、など多面的です。そして、それらの側面は、分けたり離したりできず、見る角度によって前に出て見える側面が違うわけです。
天で生まれたのか、地上で造られたのか
人間観の違いの第二。プラトン哲学によれば霊魂は天で生まれて、地に落とされ、汚れた肉体に囚われていると捉えるのですが、聖書は、ダイヤモンドのように一体である人間が、最初から一体の存在として地上で造られたと語ります。
天上で幸いだったのか、地上で幸いだったのか
もう一つ大切な違いがあります。それは原初の幸いをどこに置くかということです。プラトン哲学では、天上です。しかし、聖書は地上のエデンの園での罪を犯す前の状態を原初の幸いと見ます。
アダムとエバは神を愛し、互いに愛しあい、協力して園の面倒を喜んで見ていました。園において神と親しく語り合っていました。これが「非常に良い」状態だったど聖書自身が語ります。
通常、救いは、原初の幸いに戻ろうとします。私たちはどこに戻ろうとするのでしょう。
創世紀2章7節の解釈
西洋の教会では、創世紀2章7節の解釈が、私が知る限り、アウグスティヌス以来、長くプラトン主義の影響を受けてきて、霊魂が肉体に注入されたことを示す箇所とされてきました。しかし、その箇所は、いのちの息を与えることによって、すでに人間だったアダムが生きるものとなったと記されています。しかも、このいのちの息は動物にも与えられれています。つまり、ギリシア的な霊魂ではありません。Gordon Wenham [3]などの最近の旧約聖書学者は正しく捉えていて、その注解書も出版され広く読まれています。長い間のギリシア思想の影響が弱まり、聖書そのものの語ることが受け入れられつつあるようです。
[3] Gordon J. Wenham, Genesis 1-15, Word Biblical Commentary, Vol. 23A (Thomas Nelson Publishers, 1987), 60.
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