-百万人の福音2002年8月号より-
燃え尽きて
島先克臣宣教師(四十八歳)は一昨年から、フィリピンのマニラにあるATS (Asian Theological Seminary )で、ヘブル語と旧約聖書を教えている。(中略)かつて夏子夫人と、初めてこの国に遣わされたのは一九八九年だった。(中略。その最初の)四年の任期半ばにして島先さんは深い疲労感を味わっていた。
「ハドソン・テイラーを目標に、燃え尽きてしまうくらいにがんばって、心身共に疲れ切ってしまいました。自分はどうしようもないダメな宣教師だ、神さまもダメだと思っておられるだろうと思いました。
そんな時、あるリトリートでイエスさまが語ってくだったのです。『克臣、おまえが何もできないのを、わたしはわかっている。でも、わたしは何もできないおまえを、そのままで愛しているんだよ』。私は初めて福音を聞いたような気がしました。『えっ、福音ってそうだったの?』という感じでした。私は、ひたすら献身してがんばる、という環境で育ちましたから、『これが福音だったんだ』と知ったときの驚きと安堵感、解放感。それはものすごく大きなものでした。『ねばならない』を山のように積み上げてイエスさまに喜ばれるという私のキリスト教が、崩れ始めたのです。『何もやらなくて、いいの?』という驚き。『何もやらなくて、イエスさまが喜んでくださるのが、義認なんだ』と気づいた時、じゃあ自由に生きよう、と思ったのです。その時、福音の自由の大きさを、より深く味わいました。そして今も、そこに生き続けたいと思っています」
福音の深さを
「自分なりにことばにしてみると、二つのことがあると思うのです。それは結局、自分の福音の捉え方の問題だった。(もちろん今でも、福音の豊かさの一部しか味わっていないのですが……)
第一は、福音理解の深さという面です。主に赦され、救われたんだからがんばらなくちゃ、神さまに喜んでいただくために、あれもこれもしなくちゃという発想自体が、『すでに神に喜ばれている』ということを十分味わっていないところから出ていたのではなかったか。もっと霊的で立派なクリスチャンをめざしてがんばろうという、果てしない山登り。ちょっと下を見下ろして、自分のほうが少しはましなクリスチャンだなと安心したい、とまでは思っていないにしても、どこかそういうものがあった。果てしなく上に向かって、登り続けなくちゃいけない。これは福音とは違うものではないか。
ただ、それだけ聞くと、じゃ、何もしないでだらだらしているのがクリスチャンか、と誤解される危険もあるのですが。とにかくイエスさまのみ前で憩える安堵感というようなものがクリスチャン生活のスタートであり最後じゃないでしょうか。それが土台にあって、あとはすべてその上に立っているだけ。その土台が、どこか、この心のいちばん底になかった。でも、一晩で変わったというのではないのです。そのプロセスの中で、ヘンリ・ナーウェンの『イエスの御名で』(あめんどう出版)という本を読みながら、二時間涙が止まりませんでした。私が感じていたことをそのままことばで言い表してくれていたからです。
私にとって、それは自分のキリスト教を根底から変える体験でした。キリスト教の定義が変わったわけだから、献身とか、召命とか、伝道者とか宣教師とか、そういうことばの定義が全部変わってしまった。それほどの大きな体験でした。イエス・キリストの十字架の救いは完全で、付け加えるものは何もない。当たり前のことなのです。私は十七年間聞いてきて、自分で伝えていながら、『えっ?』という感じでした。そうは生きていなかった。この心にイエスさまを多少でも分からせていただきました。
福音の広さを
二番目は、福音理解の広さについてでした。私にとって、かつて福音とは、非常に個人的な霊性であるとか、倫理、行いとかに限られていて、酒を飲まない、礼拝に行き、なるべく嘘をつかない、それだけの世界だった。信仰が計られる点があるとすれば、教会の中で奉仕しているか、忠実に献金しているか、何人の人を導いたかという限られた分野でしかなかった。『イエスさまの救いって、そんなに狭かった?』と、環境問題をずっと考えてきた家内はよく言っていました。公害にしても、戦争、貧富の差にしても、口では、それは罪の結果ですと言う。でも、入信してからは、そういうことはしだいに考えなくなり、行動しなくなる。『それは罪の結果です。では、伝道しましょう』と。神の福音ってこれだけのものだったのかという疑問が、私たち二人の心のどこかにずっとあった。留学中訪ねたアメリカやイギリスの福音派の教会でもだいたい同じ。すごく失望していた時に、イギリスで学んでいた大学の教授に悩みをうち明けたら、これを読んでごらん、と言われて、そこで私のキリスト教がもう一歩、大きく変化したのです。」
それは、『キリスト者の世界観・・創造の回復・・』(アルバート・ウォルターズ著、聖恵授産所)という本だった。それを読んで、自分は福音派の主流にいて、正統的な福音理解をしていると思ってきたけれど、非常に狭い理解だったと、はっきり気づかされた。
「それからの私は、こんなキリスト教聞いたことがない、というくらいうれしくて。福音って人間生活のすべてにかかわっているのか。芸術も音楽も文学も楽しみ、環境問題に取り組み、政治で正義を求め、正当なビジネスを求めていいんだ。ああ、こんなに広い世界だったのか、と感激しています。それに、自然がまた、美しく見えるんですよ。それまでは、福音というのは私にとって罪の赦しだけだったのですけど、イエスさまの救いというのは、創造の回復。つまり創造本来の人間と自然のあり方、社会のあり方を回復していくもの、という理解になったものですから、生き方そのもの、生活の全分野にかかってくるのだということがようやく分かり始めたのです。ATSの授業でも、旧約聖書の中からじっくりこの福音理解を学んでいます。すると学生たちの目が輝き始め、生活が変わり、牧会や伝道のあり方も変わって行くのです。」
自分は「宣教師」である以前に、まずクリスチャン、いや、キリストによって回復されつつあるひとりの人間だと思うようになったという。(中略)これからも、どんなところに導かれても、そこでキリスト者として、ひとりの本当の人間としてどう生きるかに取り組んでいきたい。島先さんはそう語る。
(以下略。Copyright[c]2002 by Word of Life Press Ministries. All Rights Reserved)
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