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この世のものではない、寄留者、上にあるものを求めよ

更新日:2023年11月15日


初めに

 聖書には、「私たちは、この世のものではなく、地上では旅人・寄留者であるので、上にあるものを求めなさい」と言われています。それは、「この地上世界の事柄になるべくかかわらず、天国だけを目指して生きるように」という教えなのでしょうか。


I この世のものではありません

 ヨハネの福音書には、「わたしの国はこの世のものではありません」(ヨハ18:36)とあり、弟子に向かっては「あなたがたは世のものではありません。」(15:18-19)とも語ります。ここで「世」と訳された「コスモス」というギリシア語は、ヨハネの福音書の中で78回使用されています。この言葉の意味には基本的に二つの意味があります。


 A コスモスの二つの意味


  1. 目に見える被造世界

 まず「世(あるいは世界)」は、神とイエスによって造られた良い被造世界を指しています(1:10と17:24)。神はご自身の御子を与えたほどにご自身の造られた世を愛しています(3:16)。神はこの世の罪を取り除くために御子を送ってくださったのです(1:29)。つまり、御子が来られたのは「世をさばくためではなく、世を救うため」でした(12:47)。

 目に見える肉体と世界は、神に忌み嫌われている悪しきものではありません。それはプラトンの教えです。被造世界は、神とイエスが愛を込めて造られた良い世界であり、罪によって確かに歪んでしまいましたが、御子はそれを救うために来られたのです。


  2. 罪と悪魔の支配の下にあるあり方

 しかし、ヨハネの福音書を見ると、コスモスは違った意味合いも持っています。こう記されています。


今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。(12:31)


 全く矛盾している内容が同じコスモス、世という言葉にあてられています。この二重性を知ることは大変大切なことです。この二番目の意味というは、一言で言うと、良い被造世界は、「罪と悪魔の支配の下にある」ので、罪と悪魔に関わる面は、さばきの対象だと言うことです。


B 世のものではないイエスとキリスト者

 イエスは、ご自身に反対するユダヤ人に対しては、次のように語りました。


あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。(8:23)


 イエスはこの世のものではない。つまり、罪と悪魔の支配下にはいないと主張しているのです。

 それはキリスト者も同じです。イエスは語ります。


世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。(15:18-19)


 キリスト者もまた、イエスと同じように罪と悪魔の支配下にはいない。だから、罪と悪魔の支配下にあるこの世は、キリスト者を憎むのだと言うのです。この点は他の箇所でも、何度か繰り返されています。

 キリスト者はこの世のものではないので(17:16)、世に憎まれ(17:14)、世にあっては苦難がある(16:33)と言われています。


C 世に遣わされたキリスト者

 では、キリスト者は一日も早くこの世から取り去られることを願うのでしょうか。それは違います。イエスは父なる神に願いました。


わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。(17:15)


 その理由は何でしょうか。イエスは父なる神に祈りました。


あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。(17:18)


 つまり、父が世を愛し、世を救うために御子を世に遣わしたように、イエスはキリスト者をこの世に遣わしているというのです。

 イエスが昇天した後、イエスはご聖霊を弟子たちに下し、弟子たちは聖霊に押し出されて、それ以来、世に派遣されています。それは世を愛して、世を救うために来られたイエスの使命を継続するためでした。

 ではどのように、弟子たちは世を救うことができるのでしょう。それは、その生き方を通してです。

 イエスは「わたしの国はこの世のものではありません」と語りました。この「わたしの国」とは天国のことではなく、地上の神の御支配、神の国を指します。キリスト者が互いに愛し合う共同体、それが、神の国です。17章には、キリスト者が分裂するのではなく、互いに愛し合い、一つとなることによって、世はイエスを信じるようになる、とあります(17:21、23)。

 このような生き方をする弟子たちは、この世の国ではなく、神の国にいるのです。その神の国は、キリスト者の言葉と愛の行いによって地上に広がっていきます。他の福音書によれば、当時多くのユダヤ人がイエスをメシアと信じて神の国に入っていきました。


D 終わりに

 罪と悪魔の支配下にある世にあって、確かにキリスト者には苦難があります。ところが、キリスト者は「御国に行かせたまえ」と、この世から取り去られることを祈り願うのではありません。私たちの日々の願いは、「御国を来たらせたまえ」です。つまり、キリスト者の願いと使命は、この世から逃げることではなく、この世を罪と悪魔の支配から神の御支配へ、つまり「わたしの国」に移行させることと言えるでしょう(コロ1:13参照)。それがどのように実現されるかと言えば、この世のものではない行い、山上の教えに記されたような良い行いによってなされるのです。

 私たちキリスト者は、イエスが残す平安をいただいて、心を騒がせず、ひるむことなく(14:27)、日々の愛の歩みを通して、この世のものではない神の国を地上に広げていきます。

 そして、この時代の終わりに、世にある苦難が終わり、今の悲しみが喜びに変わる日が来ます(ヨハ16:20)。その喜びの日とは、私たちが天に引き上げられる日ではありません。イエスが地上に来て、世界を刷新し、私たちキリスト者が、肉体をもってよみがえり、刷新された地上世界を相続する日です(ロマ4:13、8:17)。この世が神の光に包まれる日とも言えるでしょう。

 その日まで、世のものではない生活、将来世界を満たすことになる光を先取りしてそれを輝かせる良い行い、これを祈りつつ実践していきたいと思います。


II 旅人であり、寄留者である

愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。(1ペテ2:11)


A 寄留者の意味:所属を表す

 ヘブル書11:13には、私たちキリスト者は、「地上では旅人であり、寄留者である」と言われています。この「寄留者」という言葉は、この箇所では地上に属していないという意味です。

 例えば、あなたが外国を旅行しているとき、あるいは一時的に滞在しているときは、日本国籍を持つあなたはそこでは旅人であり、寄留者であって、あなたが属しているのは日本国です。

 それと同じように、キリスト者は地上では旅人であり、寄留者です。そして、「私たちの国籍は天にあります」(ピリ3:20)とパウロが書いたように、私たちは天に属しています。

 また、パウロは、エペソ2:19で次のように語ります。


こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。(エペ2:19)


ここでは、寄留者ではないと反対のことを言っているようですが、同じポイントです。エペソ教会の異邦人キリスト者は以前は、神の家族に属さず、神の国に属していないので、他国人であり寄留者であった。しかし、今は、聖徒たちと同じ国民、神の家族なのだと言うのです。つまり寄留者と言った時、所属を指しているのです。

 イエスは、「わたしの国はこの世のものではありません」とも語っています(ヨハ18:36)。

 つまり、キリスト者が持つべき第一の優先すべきアイデンティティ、つまり、キリスト者が第一にどこに属するのかといえば、それは、地上でなく天であり、この世の国家ではなく神の国であり、異教の民ではなく神の家族・神の民なのだと、聖書は語るのです。


B 二つの誤解

 新約聖書でのこれらの表現は、いくつかの誤解を与えているかもしれません。


  1. キリスト者は天に帰る

 第一は、キリスト者は、国籍は天にある、つまり天に属するのだから、最終的に天に帰るという誤解です。しかし、聖書には、キリスト者が天で永遠を過ごすという教えはありません。天の故郷に帰ることを待ち望むということも教えていません。国籍が天にあるので、天から救い主が地上に来てくださるのを待ち望むのです(ピリ3:20)。これについては詳しくは、エッセイ「国籍は天に、天の故郷、父の家」で論じました。


  2. 目に見える世界はすべて汚れている

 第二の誤解は、キリスト者は地上では寄留者であり、この世のものではないので、地上の生に背を向けて、世のものを思わず、世捨て人のように、頓着せずに生きるという生き方です。この背景には、「肉体や目に見えるものはすべて汚れた悪であるので、できるだけ、そこから魂を清く保つ」という新プラトン主義的霊性の影響があります(詳しくは「『天から来て、天に帰る』のルーツ」参照)。この思想は、社会や文化への関心を失わせ、逃げ腰の生活や禁欲主義につながっていきます。


C 聖書の教え:ヘブル書とペテロ書

 果たしてそれは、聖書が語る寄留者、天に属する者の生き方なのでしょうか。


  1. ヘブル書

 ヘブル書11:13には、次のような有名な言葉があります。


これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。


そして、12章、13章に入りますと(12:1-17、13:1-17)、そこには、どのような生活が旅人であり寄留者の生活であるかがはっきりと記されています。それはまとめますと、罪と戦い、平和を求め、兄弟愛を持ち、結婚を聖く保ち、金銭を愛さない生活です。これが旅人、寄留者としての生き方です。地上の社会と自らに、愛と平和と聖さを実現させようとする積極的な生き方です


  2. ペテロ

 ペテロもその第一の手紙2:11で、寄留者と言う言葉を使います。ペテロは次のように勧めています。


愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。(1ペテ2:11)


 ここで寄留者としての生き方の特徴が書いてあります。それは肉の欲を避けるということです。新約聖書はギリシア的な用語、肉とたましい、を使いますが、ギリシアの霊肉二元論的意味ではありません。聖書では、たましいは、肉体を含む人間存在そのものを指します。肉とは、肉体ではなく罪の性質を指しています。

 分かりやすい例を使えば、ギリシア的な意味では、性欲と食欲は、それ自体が悪となります。聖書から言えば、性欲と食欲は神が与えられた良いもので、楽しむべきものです。ただし、それが神の定めた範囲を超える時に、罪であり悪となるわけです。

 ファッションも芸術も、ギリシア的な思考では、それ自体が低いもの、悪いものです。しかし、聖書によれば、目に見えるもの全ては、神に似せて造られた私たちがなすよいわざです。使命です。しかし、その同じものがある線を越えると罪であり悪となるのです。

 ですから、ペテロが旅人、寄留者と言った時、世捨て人のような禁欲的な生き方を勧めているのではありません。実際、直後の2:12を見てみましょう。


異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。


 ここでは積極的な生き方を語ります。立派な行いとは具体的にはどのような生き方でしょうか。それはその後の箇所を見ると書いてあります。それは、「善を行」う(2:15)、「すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬」う(2:17)、夫婦が愛し合い、尊敬しあう(3:1-7)、「一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚であ」る(3:8)、などが挙げられています。これが具体的な寄留者としての歩みです。

 そしてペテロは3:17で言います。「神のみこころであるなら、悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです」。つまり、寄留者としての生き方とは、肉体や目に見える世界を低く見て、禁欲的にそこから離れるのではありません。社会に背を向け、関心を払わず、そこから離れるのでもありません。離れるのは悪と罪と悪魔の支配です。そして、向かっていく方向は、徹底的に人と社会のために善を行う歩みなのです

 私たちは、祈りつつ、寄留者としての積極的な歩みを目指したいと思います。


III 上にあるものを求めなさい

あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。(コロ3:1-2)


 このみ言葉は、私たちがいつも天上のことを思って、地上のことに関心を払わないということを語っているのでしょうか。

 「地にあるもの」とは何なのかが、その直後の5-8節に書いてあります。


地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。…怒り、憤り、悪意、ののしり…恥ずべき言葉を捨てなさい…偽りを言ってはいけません。


つまり、「地にあるもの」とは、地上の事柄全体を指しているのではなく、直接罪に関わる部分です。そして「上にあるもの」とは、3:10の「新しい人」と同じで、3:12以降にあります。


深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。

互いに忍耐し合い…互いに赦し合いなさい。…

これらすべての上に、愛を着けなさい。


つまり、ご聖霊が与えてくださる愛の実です。地にあるものを思わず、上にあるものを思いなさいという命令の意味は、地上のこと全てを下に見て、いつも天上のことを考えているという意味ではありませんでした。罪に背を向けて徹底的に愛に生きるという意味だったのです

 

IV 終わりに

 以上いくつかの例を見てきました。確かに聖書には、「肉と霊」など、ギリシア二元論を思わせるような用語が使われています。しかし、聖書の著者はそのような用語を使っていますが、違う意味合いを持たせています。それは、文脈を見れば明らかになります。共通しているのは、罪と戦い、愛と聖さ、正義と平和を求めていく生き方、地上での積極的な生き方を指しているのです。


 

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