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執筆者の写真島先 克臣

ゲヘナ

更新日:10月11日


(ヒノムの谷)


兄弟に…『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタ5:22)


ここで、主イエスが述べた「ゲヘナ」は、何を意味していたのでしょうか。


I  言葉の由来

 ギリシア語のゲヘナは、もともとエルサレム南西にある「ヒノムの谷」(ヘブライ語でゲー・ヒンノム)を指しました。ヒノムの谷では、バアル神礼拝が行われ、子どもの犠牲がモレクに献げられたことがあります(II列23:10、エレ32:35)。預言書によると、神はエルサレム郊外の谷で敵を裁くと言われ(ヨエ3:2、イザ30:29-30)、また、悪人は、そこで殺され、火で焼かれるとされました。ヒノムの谷ではゴミが焼かれていたため、悪人に対する火による神のさばきの場となったと思われます。


II 旧約聖書における死、救い、さばき

 新約聖書におけるゲヘナについて考える前に、旧約聖書における死とさばき、そして、祝福と救いについて確認する必要があります。


A 死

 旧約聖書における「死」とは、「神に背いたため、土のちりで造られた人間が土に帰ること」を意味しました(創3章、エッセイ『旧約聖書の死』参照)。地上の被造世界は、美しく、実り豊かで、喜びと命に溢れたものでした。ところが、「死」によって、そのような神の豊かな祝福から絶ちきられることになったのです。


B さばき

 ですから、旧約聖書においては、罪に対する神のさばきは「死」です。アダムとエバは罪のゆえに死んで土に帰ることになりました。コラの子たちがモーセに逆らった時は、彼らの足もとの地面が割れ


地は口を開けて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての所有物を吞み込んだ。彼ら…はみな、生きたまま、よみに下った。…また、火がのところから出て、香を献げていた二百五十人を焼き尽くした。(民16:32-35)


とあります。コラの子たちは長寿を全うして平安のうちに死んだのではなく、生きたまま地に飲み込まれ、あるいは、火で焼かれて死にました。それこそが、罪に対するさばきでした。もちろん、旧約聖書には「地獄の苦しみ」という概念はありませんから、神のさばきは、齢(よわい)を全うしない、悲惨な死に方に表されたのです。


 それは、ダビデ王が、ソロモンに伝えた遺言にも表れています。ダビデを呪ったゲラの子シムイを殺さない、とダビデは一旦は誓ったのですが、ダビデは自身の最期に次のようにソロモンに言い残します。


しかし今は、彼を咎のない者としてはならない。あなたは知恵の人だから、どうすれば彼の白髪頭を血に染めてよみに下らせられるかが分かるだろう。(I列2:9)


 結局、シムイはソロモンへの誓いを破ったという理由で、ソロモンの命により、ベナヤによって討ち取られることになります(I王2:46)。


 当時のユダヤ人にとって、罪に対する報酬は死でした。


C 祝福と救い

 逆に、律法に従う者に約束されていた祝福は何でしょう。それは、「長寿、多くの子孫、そして、実りの豊かさ」です。それは、もしアダムらが罪を犯さなかったらば享受していたであろう祝福です。地上での命、被造世界の中での豊かな生活こそが、神の祝福の現れでした。


 そのため、旧約聖書では、実り豊かで平和な地を受け継いで、そこで生きることが救いであり、「断ち切られる」、すなわち、殺されることが、刑罰でした。たとえば、出エジプト31:14には次のようにあります。


あなたがたは、この安息を守らなければならない。…これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者はだれでも、自分の民の間から断ち切られる。


 次の詩篇37編の箇所は、旧約聖書における救いとさばきを一言で表しています。


悪を行う者は断ち切られ

主を待ち望む者 彼らが地を受け継ぐからだ。(詩37:9)

主に祝福された人は地を受け継ぎ

主にのろわれた者は断ち切られる。(詩37:22)


D 終末の救いとさばき

 この原則は、終末においても変わりません。


  1 終末の救い

 詩篇やイザヤ書に繰り返し描かれている終わりの日の救いは、主ご自身が全地の王となってこの地上を正義と公正と平和のうちに治めること、しかも永遠に治めることです。そして義人は、正義と平和に満ちた、豊な地上で生きることになります。その地上の生活の様子はイザヤ書の2章や最後の数章などに美しく描かれています。主が王となると、人は長寿で、自然界も変化し、穀物や果物の実りは豊かになります。貧しい者はいなくなり、正義と公正、そして世界平和が訪れます。それが永遠に続きます。罪が支配していた時代からすっかり様相が変わったこの世界をイザヤは「新しい天と新しい地」と呼びました。

 

  2 終末のさばき

 では、終末におけるさばきはどうでしょう。イザヤ書の最後の3節は注目に値します。


わたしが造る新しい天と新しい地が、 わたしの前にいつまでも続くのと同じように、 ──のことば── あなたがたの子孫とあなたがたの名も いつまでも続く。(66:22) 新月の祭りごとに、安息日ごとに、 すべての肉なる者がわたしの前に来て礼拝する。 ──は言われる──(66:23)

彼らは出て行って、 わたしに背いた者たちの屍を見る。 そのうじ虫は死なず、その火も消えず、 それはすべての肉なる者の嫌悪の的となる。(66:24)


 新しい時代に地上に生きることが許された者が、都から出て、ヒノムの谷かもしれない場所で見るものは、神に背いた者たちの屍、しかも、火で焼かれている屍です。これが終末における悪人に対する永遠のさばきでした。それは、地獄における苦しみではなく、地上で見ることができる、悲惨で、嫌悪の的となる死と死体です。しかも「火も消えず」とあるように、永遠に続くことが示唆されています。


主に祝福された人は地を受け継ぎ

主にのろわれた者は断ち切られる。(詩37:22)


 この原則は終末において成就することになります。


E  復活信仰

 さて、旧約聖書時代の終わりには、ユダヤ人たちは一つの大きな曲がり角に立ちます。ユダヤ人たちは律法に従おうとしたために、異教徒により迫害され、圧迫を受け、中には殺される者が出てきました。


「なぜ悪人が長寿を全うし、義人が苦しみつつ殺されなければならないのか。」


正義の神を信じる信仰者にとってこれは信仰上の大きな問題となりました。その時、出現したのが復活信仰です。ダニエル書12:2に次のように記されています。


ちりの大地の中に眠っている者のうち、 多くの者が目を覚ます。 ある者は永遠のいのちに、 ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。


 これは、死者の復活を指します。これは復活信仰の萌芽と言えると思いますが、驚くべき信仰告白です。この復活信仰は第二神殿期により明確になりました。マカバイ戦争で捕えられたユダヤ人が異教徒の支配者から律法を破るようにと迫られ拷問を受けたときのことです。


彼は…答えて「お断りだ」と言った。そこでこの者も、最初の者と同じように引き続き拷問を受けた。息を引き取るばかりになって彼は言った。「悪人よ、お前は我々を今の生から解き放つが、世界の王は、ご自身の律法のために死ぬ我々を、命の永遠のよみがえりへと復活させてくださる。」(聖書協会共同訳 第二マカバイ7章8節と9節)


 ダニエル書とマカバイ記に共通していることがあります。それは、神に従おうとする義人が、異教徒によって苦しめられるという不条理な状況です。「神は正義であり、全能である。その神がこの不条理を許すはずがない。神に従いとおした義人は必ず肉体をもって地上によみがえって義と認められ、迫害した異教徒たちはよみがえって神のさばきを受けるはずだ」と考えたのです。

 この復活信仰はユダヤ人の間で広がり、定着していきます。そして、その復活信仰が単なる希望ではなく、真実であることは、イエスの復活により確証されました。

 当時のユダヤ人は、死者の復活はこの世の終わりに神が約束された救いをメシアをとおして実現するときに起こると信じていたので、イエスがラザロを死者からよみがえらせたことは、終わりの日、救いの時が来たことの証明となったことでしょう。


F  復活信仰の後も

 さて、死後の話題に戻ります。ダニエル書で「恥辱と、永遠の嫌悪」と言った時、地獄の苦しみではなく、イザヤ書の最終節と同様に、悲惨な死と屍を指したことでしょう。

 つまり、復活信仰を経た後も、旧約聖書の教えは一貫して、変化しなかったようです。主に祝福された人は復活して地を受け継ぎます。しかし、主にのろわれた者は復活して後、断ち切られ、生きる者から永遠に恥辱と嫌悪を受けることになります。しかし、それは「死」を意味するのであり、地獄の苦しみではなかったのです。

 

III ヘレニズム時代

 ところが、アレキサンダー大王の東方遠征で、東洋の宗教が西方にもたらされると、近東と西方の宗教事情は、急速に変化していきます。それ以前にも、ゾロアスター教が起源とも言われる「天国、地獄、よみ」の考えがギリシアにもたらされていたようです。ところが、その東洋の二元論はヘレニズム時代にはユダヤ地方にも影響を与え始めました。

 この時期のユダヤ教は、同時代のギリシアの思想と同様に、ハデスを含めて天国や地獄、あるいは、ゲヘナなどの、死後の世界に関する詳細な教えを発展させていきました。その結果、ユダヤ教では、悪人は「地下の世界で苦しむ」こととなったのです。


 例えば、紀元前1~2世紀頃に成立したと推定される『第一エノク書』は、エノクの啓示という形をとるユダヤの黙示文学です。その10:13には、次のように記されています。


その日(つまり、終わりの日)には、彼らは、火の深淵、苦しみ、永遠に閉じ込められる牢獄に連れていかれる。


また、旧約聖書続編に含まれるユディト記16:17には、こうあります。


わが民に逆らって立つ国は不幸である。全能の主は、裁きの日に彼らを罰して その体に火と蛆(うじ)とを与え、 彼らは痛みのため、永遠に泣くことになる。


 旧約聖書には、死後に苦しむ「地獄」の教えはありませんでしたが、紀元前2世紀から紀元1世紀頃には、ユダヤ教は大きく変化しています。悪人は、死後にゲヘナで苦しむこととなったのです。しかし、いつゲヘナに行くのかに関しては当時のユダヤ教に二つの説がありました。一つは、死後にすぐに魂だけゲヘナに投げ込まれるというもの、もう一つは、終末の復活後に肉体と霊が一体となってゲヘナに投げ込まれるというものです。そして、その時代より少し後の1世紀から2世紀にかけてのユダヤ教も基本的に同じでした(Duane F. Watson, ‘Gehenna,‘ Anchor Yale Bible Dictionaryより)。


IV  新約聖書のゲヘナ

 では、新約聖書はどうでしょうか。主イエスは


ゲヘナでは、彼らを食らううじ虫が尽きることがなく、火も消えることがありません。(マコ9:48)


と語り、人々に悔い改めを迫りました。

 この現象には、最低三つの解釈が成り立つと思われます。


A 東洋の宗教が正しい

 ゾロアスター教などの東洋の宗教がもたらした天国か地獄の苦しみかという二者択一の教えは、実は、神がもともと制定されていたもので、神は旧約聖書で明らかでなかった部分を、東洋の宗教を用いて啓示した、という考え方が成り立つかもしれません。


B 主イエスは便宜的に用いた

 第二番目の考え方は、主イエスや他の新約聖書の記者が、「ゲヘナでの苦しみ」という当時のユダヤ人の間で一般的であった考え方を便宜的に用いて、悔い改めを迫ったというものです。つまり、ゲヘナでの苦しみは実際にはないのだが、あるかのように語っているというものです。この立場は、ラザロと金持ちのたとえで、主イエスが用いたと思われる技法と同じとなります(エッセイ「ハデス、パラダイス、アブラハムの懐」参照)。

 ゲヘナへの言及は、ユダヤ人の読者を想定していたと言われるマタイの福音書に多く、他の福音書では少ないか皆無です。それは、ゲヘナのレトリックが特にユダヤ人に有効であったことの現れかもしれません。


C  旧約聖書と同じ

 第三の解釈は、「新約聖書は、旧約聖書と同じである。ゲヘナは死を意味するのであって、死後の苦しみを指しているのではない」というものです。新約のゲヘナに関する13の箇所[1]だけでなく、ヘブル書(10:27)、第二ペテロ(2:4)、ユダ(7)、そして、黙示録(19:20、20:10、14、15、21:8)に見られる「火による永遠の刑罰」は、刑罰を受ける者の自覚的な苦しみを指しているというよりも、上記のイザヤ書やダニエル書のような、悲惨な死、そして、死んだ悪人たちが永遠に受ける恥辱と嫌悪を指すというものです。


 これに関しては、世界で最も定評のある聖書辞典の一つであるAnchor Yale Bible Dictionaryで「ゲヘナ」の記事を書いたデュエイン・ワトソンは、次のように述べています。


イエスは、ゲヘナの苦しみを描いているのではないが、その犠牲にならないためあらゆる手段を講じるように弟子たちを警告しているのである。


また、次のようにも記しています。


新約聖書は、ゲヘナの苦しみを描いておらず、サタンをゲヘナの主であるとも述べていない。それは、後代の文学的な技法である。


 ワトソンの解釈は、この第三の解釈を支持しています。もしそれが正しければ、旧約聖書と新約聖書は次の点で一致し、矛盾がないことになります。


主に祝福された人は地を受け継ぎ

主にのろわれた者は断ち切られる。(詩37:22)


 つまり祝福と救いは、神が造られた良き地上世界を受け継いで生きることであり、さばきと呪いは、その地上生活の豊さと恵みから断ち切られること、すなわち、死ぬことである、という点です。


V 結論

A  結論は出せない

 ゲヘナというのは、1. 罪人が永遠に苦しみ続ける場なのか、あるいは、2. ゲヘナの苦しみというものはないのだが、ユダヤ人の悔い改めを意図して、あるかのように語ったレトリックなのか、それともそれは、3. 罪人が、地上世界の豊かな命と生活から断ち切られる「死」を表すのか。少なくとも三つの考え方があるようです。

 果たして新約聖書はどれを支持しているのでしょうか。残念ながら、それに関しては、上記のように解釈が分かれ、論議も平行線をたどり、結論が出せない状態です。それはちょうど、中間状態(個人の死から復活までの状態)に関しては、最低三つに解釈が分かれていて結論が出せないのと似ています(「福音の全体像」の「中間状態」項を参照)。これは、聖書自体がはっきり述べていない事柄、中心の教えでないときに度々起こることです。


B 福音の中心は

 しかしながら、このテーマに関しては聖書から明確に理解できる点が一つあります。それは、聖書が語る救い、つまり福音(良い知らせ)の中心は何かという点です。


  1 聖書の語る良い知らせの中心

 旧新約聖書が一貫して語る救い、福音(良い知らせ)の中心は何でしょうか。それは


「神が全世界の王となり、全世界を愛と正義、平和と豊さで満たす(神の国)」と旧約聖書は約束した。その救いの約束が、ついにイエスによって実現し始めた。


というものです(詳しくは、「福音の全体像」参照)。この点は強調しなければならない点です。なぜならば、「聖書の救いは、地獄からの救いだ」という考え方があまりにも強いと、旧新約聖書が語る救いの全体像が見えにくくなってしまうからです。


  2 主イエスご自身も

 主イエスが「神の国」、「天の御国」、「御国」(これらは全て同じ意味)について言及したのは、マタイの福音書で51回に及びます。ところが、ゲヘナへの言及は、マタイの福音書では7回、マルコで3回、ルカで1回のみです。「ゲヘナからの救い」は、主イエスが伝えた神の国の福音の中心的メッセージではありません。

 主イエスご自身が公生涯を通して語った福音の中心は、次のようなものでした。


神がイエスにおいてこの地上で王となった(神の国の到来)。だから、悔い改めて、神を王とする生活、すなわち神と人を愛する生活(山上の教えなど)を真剣に始めよ。


  3 ヨハネもパウロも

 ゲヘナという言葉はヨハネの福音書にはなく、私が知る限りパウロは死後の永遠の苦しみに関して触れていません。もし、ヨハネとパウロにとって、「永遠の地獄の苦しみからの救いこそが、キリスト教の救いの中心」だとすれば、それを強調して繰り返し述べるはずですが、パウロもヨハネも、一言も触れていないのです。


  4 その後の教会の歴史も

 また、古代教父のエイレナイオスにとっての救いは地獄からの救いではなく被造世界の完成です。ニケア信条などのキリスト教の古代の信条も天国行きや地獄の苦しみを語っていません。使徒信条にもゲヘナでの意識的な苦しみは記されていません。

 天国か地獄での苦しみかという二者択一的な思想がキリスト教世界で一般的になったのは中世になってからです(その歴史的な経緯は、エッセイ「『天から来て、天に帰る』のルーツ」参照)。


  5 まとめ

 つまり、「地獄からの救い」というのは、たとえそれがキリスト教の救いに含まれたとしても、その中心ではないのです。

 私たちは、主イエスに倣い、ヨハネやパウロに倣い、そして、古代の教会に倣って、「地獄の苦しみからの救い」を宣教の中心に据えるのではなく、「神が地上で王となられた」という神の国の福音を中心に述べ伝えるべきではないかと思います。ゲヘナへの言及が一番多いマタイの福音書でさえ、神の国の福音が、初め(3:2)から、終わりの大宣教命令に至るまで貫いているのですから。


 そこで、これを機会に、「キリスト教の救いの中心は、地獄からの救いだ」という考えをちょっと脇において、拙論「福音の全体像」などを参考にしながら、聖書全体が語る救いに思いを向けていただければ幸いです。



追記:いのちの素晴らしさ

1 地上で生きる喜びと祝福を

 もし聖書が全体として、「死んで地上の生活から断ち切られることが恐ろしい刑罰だ」と語っているとしましょう。そうならば、私たちの意識は、今現在、美しく豊な被造世界の中で生きることの素晴らしさに向くはずです。そして、将来復活して、完成した地上で生きることがどれほど素晴らしい約束なのかを示すことになります。私たちは、そのように実感しているでしょうか。自らを振り返ってみたいと思うのです。

2 永遠のいのちとは

 主イエスは、

わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、

わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。(ヨハ6:40)

と言いました。永遠のいのちとは、天国に行くことではなく、終わりの日に、肉体をもって地上によみがえり、非常に良い被造世界の中で、生き生きと生きることです。

 パウロは、

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ロマ6:23)

と語りました。もしパウロが、旧約聖書とイエスの教えに忠実であるならば、この個所の「死」と「いのち」は地獄と天国のことではなく、文字通りの肉体の「死」と、地上で生きる「いのち」を指しているのかもしれません。


[1] マタ5:22、29、30、10:28、18:9、23:15、33マコ9:43、45、47、48ルカ12:5、ヤコ3:6。


写真の著作権はCreative Commons。https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/deed.en

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2 Comments

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yushisentian960
Oct 23, 2023
Rated 5 out of 5 stars.

新しい福音を聞いた思いです。

      

私の葬式で流していただきたい賛美として、新聖歌257番を希望していますが、この楽曲がふさわしいものになります。



主イエスは私たちの
罪ゆえ十字架で
贖いの道 開き
よみがえられた
救い主 

キリストは生きておられる
わがうちにおられる
すべては御手のうちにあり
今日も励もう
主に守られ 

主イエスの血潮により
新たな望みを
与えられ行く道は
いかに遠くも恐れなし

 
キリストは生きておられる
わがうちにおられる
すべては御手のうちにあり
今日も励もう主に守られ 


 
主イエスにまみゆる時
真白の衣(きぬ) 
着て
ハレルヤとほめ歌い
御国の門をわれ進まん


 
キリストは生きておられる
わがうちにおられる
すべては御手のうちにあり
今日も励もう主に
守られ

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島先 克臣
島先 克臣
Oct 24, 2023
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コメントありがとうございました。新しい福音と感じたのですね。ありがとうございます。次のエッセイもお読みいただければ幸いです。「福音の全体像

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