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執筆者の写真島先 克臣

世界観と物語(ストーリー)

更新日:2023年10月5日



はじめに

 アニメやメディアで時々耳にする「世界観」とはいったい何でしょうか?様々な考えがありますが、このエッセイでは世界観の「物語(ストーリー)性」に焦点をあて、私なりの理解を紹介していきます。


世界観はメガネ

 世界観と言うと、何か理論的で頭の世界、あるいは、アニメなどの作品の中にあるもの、という印象を持つかも知れません。ところが実際は、私たち誰もがすでに持っているものなのです。

 世界観とは、世界を見る枠組みのことです。私たちは、自分で意識してはいませんが、この枠組みを通して身の回りの出来事を見ています。ですから、それはちょうど、かけていることを意識していないメガネのようです。


色々ある世界観(メガネ)

 この世界観(枠組み、メガネ)には、色々な種類があります。例えば、「進化論的唯物論」という世界観(メガネ)を持てば、人も、動物も、偶然進化のプロセスを通って来たモノとして見ることになります。真善美も人間社会が生み出した相対的なものとなるでしょう。「輪廻思想」というメガネを強く持つ人は、今の出来事を前世の影響だと考えます。

 このように、人はだれでも、ある世界観(メガネ)を持っていて、それを通して現実を見、判断しているのです。唯物論的進化論やキリスト教だけでなく、ニューエイジ、共産主義、仏教、イスラム教も、それぞれがひとつの世界観です。無宗教と自認する日本人も、日本人なりの世界観(メガネ)を持って生活しています。


世界観は物語(ストーリー)

 この世界観(メガネ)を形作るのは、普通、「過去・現在・未来」のあるストーリーです。例えば、一般的には、宇宙はビッグバンで始まり、拡散し続けて、ついには死んで行くと考えられています。古典的な共産主義は、階級闘争の歴史の最終段階に、労働者階級の勝利があると見ました。キリスト教もストーリー性のあるメガネです。アメリカの旧約学者レイ・ヴァン・リーウエンによると、聖書は「一貫した世界観を持っており...創造から、まだ実現していない再創造まで、という現実のストーリーを語っている」と言います。つまり聖書の世界観というのは、天地創造から天地再創造に至る「ストーリー」だというのです。クリスチャンは、このストーリーが単なるお話や解釈でなく現実であると信じています。


世界観はなん層にもなるストーリー

 上記で述べたストーリーは、世界や宇宙のストーリーでした。しかし、ストーリーのレベルはそれだけではありません。実際私たちは何層にもなるストーリーの中で生きています。生まれてから今に至るまでの自分の人生、というのが一番身近なストーリーで、その上に家族のストーリー、自国のストーリー、それに世界の歴史をどう見るかという、世界史のレベルもあります。その一番上にあるのが宇宙のストーリーです。


生活に影響を与えるストーリー

 これらの何層にもなるストーリーは互いに深く関わって影響しあい、私たちの価値観、感性、霊性を形作り、日々の生活に影響を与えています。


 例えば、一個人の生い立ちを考えてみましょう。親に愛され、受験に失敗せず、今までいつも順調だった人が、何かのチャンスに出会った時、かなり積極的にそれを掴んでいくかも知れません。ところが別の人が同じチャンスに出会っても、それを掴むとは限りません。いつも失敗し、自己像が低い人は、恐れがあるので身を引く可能性があります。同じビジネスチャンスを見て、成功の機会と見るか、避けるべきリスクと見るかは、性格だけでなく、その人の生い立ちが影響して来ます。生い立ち(ストーリー)が、現実の世界をどう見るかを左右するメガネ、「世界観」の働きをしています。


 自分史だけではありません。家族の歴史、郷土の歴史も世界観を形作ります。そして国の歴史もそうです。大平洋戦争中、多くの若者は「日本国は神国であり、アジアを西洋から解放する使命がある。だから、中国、ロシアに対し勝利したのだ。これからも神風がふいて勝利する」という日本史観(ストーリー)を持っていました。その結果、アメリカの国力がはるかに日本より勝っているにも関わらず、若者たちは使命感を持ち、勝利を信じて命を捨てて行きました。将校として中国に渡った私の義父もそのような思いだったことでしょう。ストーリーが如何に人の心を動かすものかが分かると思います。だからこそ教科書の歴史がどう書かれているかが、大切なのです。


 世界全体の歴史をどう見るかも大切です。私たちの多くは欧米に対して何かしらの劣等感を持ち、自分達の文化的伝統を低く見る傾向があるかも知れません。その理由は、単に欧米が軍事的、経済的に世界を支配して来たからというだけではなく、欧米が持つ世界史観の影響を受けているという面があることを否定できないと思います。


 変化するストーリー

 ストーリーの変化の困難さ

 このようなストーリーは変化することがあります。それはパラダイムシフトとか回心とか言われています。ですがこの変化は、簡単に起るものではありません。

 何故かと言いますと、


 第一に、私たちのストーリー(世界観)は「メガネ」のようなもので、それを通して現実を見ていますが、普通は意識されてないので、存在すること自体気付きません。そのため、変化させようとは思えないのです。

 第二に、私たちは、何を見ても自分のストーリーに従うように無意識のうちに解釈するので、自分のストーリーが変わるどころか、それが益々強くなります。

 第三。普通は共同体(家族、教会、日本国)の中でその解釈がなされます。共同体のストーリー(世界観)は共同体を支える特徴であるが故に、共同体は個人の変化に抵抗します。

 第四には、私たちのストーリーは、生まれ育った共同体の文化の影響を強く受け、私たちの心の底にある価値観、そして、自分が属する共同体への信頼と献身に深く関わっているので変化が難しいのです。


ストーリー変化の可能性と一般的な変化の段階

 しかし、パラダイムシフトや回心というストーリーの変化は、確かに可能です。これを読んでおられる方も、おそらく唯物論や他宗教からキリスト教に回心された方々でしょう。アメリカ人宣教師で、中国本土の大学教育に関わっていたサム・ローエン博士は、世界観とその変化に関して造詣が深い方ですが、博士によると、世界観(ストーリー)の変換は、多くの場合三つの段階を経て起こるそうです。


 第一は、今まで自分を支えてきた世界観が自分を支えられなくなる段階です。例えば、自分の共同体(家族、宗教等)への信頼を崩すような出来事、また、今までの自分の理解では捉えきれない挫折体験をした時、私たちは、自分や共同体の考え方、あるいは信仰に疑問持ち、批判的になります。

 第二段階として、他の思想やあり方にオープンになり、それを一時的に取り入れて試します。

 第三に、その新しい見方の方が、自分と回りの世界、または聖書をよりよく説明してくれる時、その違ったあり方を自分のものとして受け入れます。そのプロセスの中で新しい世界観が無意識のうちに形成されていくのです。

 皆さんも多かれ少なかれ、このプロセスを通られたのではないでしょうか。


恵みにより変化するストーリー

 私は、「神は恵みにより聖霊によって、私たちが持っている様々なレベルのストーリーを、神御自身のストーリーに近付けて下さる」と考えています。(私は神御自身のストーリーとは現実の歴史であると信じています。)


 例えばですが、ある人が、クリスマスに親からもらったプレゼント等を思い出し、「親に愛された幸いな子供時代だった」と思っているとします。ところが、その人は学校や職場で「よい人間関係が築けない」と悩んでいるので、カウンセリングを受けました。その結果、「今まで自分は親に愛されて育ったと思っていたが、実は忙しく働く両親のもとで育ち、とても寂しかった」という自分に気付いてきます。すると、プレゼントは、時間を割けない親が、せめて、と思って買って来たものと見えてきます。自分は親の愛を求めて良い子でいたし、親の愛を埋め合わせるべく勉強に打ち込んできたことが見えてきます。自分の実績で自分を支えてきて、今一つ他者を信じられず、自分の正直な姿に直面できないので、結果的に自然な人間関係が築けなかったのだと分かって来ます。


 変化したストーリー(忙しい両親のもとで寂しく育った)で過去の出来事(プレゼント)を見直すと、同じ過去の出来事(クリスマスプレゼント)が違った意味あい(解釈)を持ってきます。そして現在の自分を見る見方が変わり、ついには生活自体にも少しづつ変化が訪れるのです。


クリスチャンの場合

 クリスチャンの場合、ここで終わりではありません。時間がかかると思いますが、


そのように寂しかったあの子供時代にも、神がおられて自分を愛して下さっていた。今の自分を無条件で、実の親以上に愛して下さっている。今後も決して私を見捨てることはない。


と、自分史が、神の視点で変化していきます。すると、過去の傷が少しずつ癒され、自分の生き方が変化してくるのです。私たちの個人史が、語り直され、神のストーリーに近づいて、人が人として回復していく。これは、救いがもたらす恵みだと私は思います。


 それは、個人史だけではありません。家族史にも、日本史にも言えることです。日本人の持っている良いものが、歴史を通して神から与えられた賜物であると見えてくると、いたずらに誇ったり自己卑下したりするのではなく、「では、日本人としてどのようにアジアに、また世界に貢献していったらよいか」という方向が出てきます。


 個人史から宇宙史まで、神の恵みにより、聖霊によって、多くの場合人を通して、ストーリーが語り直されて行く。そのプロセスで人が癒され、回復されていくのです。聖書を専門に語る教師だけでなく、クリスチャンのカウンセラー、歴史家、政治家、思想家、活動家、等、ありとあらゆる人材が多く世に出て、癒しと回復をもたらしていってて欲しいと願います。


二元論から一元論へ

 さてここでキリスト教の中にも幾つかの異なるストーリーがあることに注目してみましょう。代表的なのは、二元論的なストーリーと、一元論的なストーリーです。


 二元論的なストーリーとは、新プラトン主義の影響を強く受けたストーリーです。ギリシアの思想によると、


霊魂だけが善であり、清く、永遠です。物質は、悪であるか、低級です。救いというは、霊魂が、肉体や目に見える世界から離れ、上なる神と一つとなること


です。この思想の影響を強く受けた西洋のキリスト教は、聖書を新プラトン主義のストーリーに近付けた形で解釈してきました。


肉体や目に見える世界は一段低いもので、ついには消滅する。そして救われた者だけが天に昇り、神と一つとなる、それが救いだ、


と考えます(こうなった経緯については、エッセイ『「天から来て、天に帰る」のルーツ』参照)。


 それに対して一元論的なストーリーでは、


「神は目に見える世界を良いものとして造り、人間を霊肉一体のものとして最初から造った」という点から出発します。そして、良き世界は罪によって歪められたけれども、神は目に見える世界を見捨てたり、消滅させたりせず、かえって回復し、ついには完成させる


と考えます。このストーリーでは、霊と物質を基本的には二分せず、いわんや物質を低級とは見ません。「霊も物質も罪の影響で歪み、霊も物質も恵みの故に回復し、救われる」と見ます。


生活に与える影響

 この二つのストーリーの違いは、日々の生活にも影響を与えます。 


 教会に加わって何年か経つうちに、私は、


世界の様々な問題の原因は罪なのだから、一人でも多くの人を救いに導いていくことこそが真の解決だ。しかも、目に見えるもの全ては罪の影響を受けていて、最終的には滅びるのだから、救霊だけが永遠の価値がある


と考えるようになっていました。この考えは、二元論的ストーリーに基づいたものです。そしてこの考えを押し進めますと、この地上でなす唯一の価値あることは伝道であり、他の事はその手段となります。


政治に正義を求めること、ビジネスを通して社会に仕えようとすること、よい「物作り」を目指すこと、心を込めて家事育児に向うこと、環境を守ろうとすること、よい音楽や絵画を求めていくこと、その他どんなよいことでも、それ自体では、永遠の意味も価値もない。救霊につながる「証し」になったときだけ、付属的な価値がある


ということになります。そうすると、クリスチャンは、真剣に、心から、確信と喜びをもって日常の営みができなくなってしまいます。伝道と教会生活だけはしっかりやるけれども、政治やビジネス等の残りの全ての生活は、聖書からの指針が見出せないため、どうしても周りに流されていきます。


 しかし、一元論的なストーリーを持つと、今この生活の現場で、神に従いどう生きるのか、が最も大切な点となってきます。文化と社会の変革に使命感を持って向かえます。皿洗いから国際政治まで、主にある労苦は、神のみ前で価値のある、無駄でないものとなってきます。


 この一元論的な世界観に明確に立ったキリスト者が多く世に出て行く時、私たちは益々、地の塩、世の光として、社会に貢献できる存在となっていくでしょう。


聖書解釈に与える影響

 世界観の違いは、聖書解釈にも影響を与えます。異なる世界観(ストーリー)は、同じ現実(聖書)を見ても、異なる解釈を生み出すからです。

 一つの例として、有名なヨハネ13章2-3節を考えてみましょう。そこには、


私の父の家には住む所がたくさんあります。…私が行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたを私のもとに迎えます。


とあります。この節を二人の違った世界観(ストーリー)を持つクリスチャンが読む時、違った解釈が生じます。


 例えば、二元論的ストーリー(世界観)を持っているクリスチャンが読むと、イエス様が来る時というのは、自分が死ぬ時であり、「父の家」は天上となります。しかし、一元論的ストーリーを持つクリスチャンにとっては、イエス様が「来る」のは再臨の時となり、「父の家」は地上に降りてきた新しいエルサレムとなります(黙示録21、22章)。これは、同じ事実(聖書)を見ても、メガネ(世界観)によって解釈が違ってくる一つの例です(この箇所の解釈に関してはエッセイ『国籍は天に、天の故郷、父の家には』参照)。

 

 それ以外にも、幾つか例があげられます。ノアの箱船は、二元論的なメガネにとっては「堕落した世界が消滅して私たちの魂が天国へ行く」という救いの原型になり、一元論的なメガネにとっては「神は被造世界を消滅させずに保ち、新たにする」という救いの原型になります。新しいエルサレムに関しても、天国の象徴的表現か、それとも新しくされた地上の象徴的表現かの違いがでてきますし、「狼と子羊はともに草をはみ」とは、千年王国なのか、新しい地上なのか、、、、等、様々です。


 教会の中には「自分には前提はない。正しく解釈すれば、聖書の真理に客観的に到達できる」という近代主義的前提があります。確かに客観性を大切にするアプローチによって以前よりもはるかによく聖書を知れるようになりました。またストーリーが違うからと言って三位一体と言った根本教理が違って来るわけではありません。しかし、もし上記の例のように、読者のストーリー(世界観、メガネ)が、聖書解釈に少なからず影響を与えるとすれば、私たちは自分が持っているストーリーを、今まで以上に意識しなければならなくなるでしょう。

 今、世界で、一元論的世界観に立った聖書神学者、組織神学者が次第に増えていて、この分野でも様々な成果が出てきていますので、今後が楽しみです。


最後に

 個人史から始まり、宇宙史まで、神の視点で語り直されて、ストーリーが変化していく。そのプロセスのなかで、私たちは癒され、生活全体が変化して行きます。これは神の恵みによる御聖霊の働きで、しかも一生続くプロセスです。そしてクリスチャンが互いに助け合いつつこのストーリー変化のプロセスを歩んで行けることを願っています。


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