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執筆者の写真島先 克臣

私の霊感論―翻訳聖書の視点から―

更新日:9月28日



(以下は、2019年の関西学院大学神学部主催、神学セミナーにおける「なぜ聖書を翻訳し続けるのか」という発題を改訂したものです)


初めに

 日本聖書協会で働き、聖書翻訳事業に関わる中で、私は次の疑問を持つようになりました。


イスラム教にとっての聖典は、アラビア語であって、翻訳されたものは聖典ではない。ところがキリスト教は、聖書をひたすら現地語に翻訳し、翻訳された書を「神の言葉」としている。これはいったいどうしてなのか。


I. 神は人が分かる言葉で語る

フィリピンでの体験

 1989年のことです。私たち夫婦と小さな三人の子どもたちは、フィリピンのバタンガス州、バタンガス市にいました。宣教師として語学研修のためにその地に行って間もない頃でした。街を散歩していた時、三歳半だった娘が私の手を振り払って急に走り出しました。往来の激しい通りにまっすぐ向かっています。右から乗合自動車のジプニーが走って来る、その前に飛び出す、と思った瞬間、道路を挟んだ向こう側から娘の名を呼ぶ大きな声がして、娘は驚いて立ち止まる。その鼻先をジプニーが通り過ぎて行きました。

 前日に出会って立ち話しをした青年が、偶然にも通りの反対側にいて、娘の名前がフィリピンにもあるので、それだけを記憶していて咄嗟に叫んだのです。もし、娘に分からない言葉で話しかけられても、娘は飛び出していたかもしれません。人を救うには、分かる言葉でなければなりません。


聖書自体の中で

 それと同様に、愛の神は、人の分かる言葉で救いを語ります。神はアブラハムにアッカド語の古バビロニア方言で語り、モーセには古典エジプト語とアッカド語のアラビア方言のようなもので語ったことでしょう。ダビデ王には南ヘブライ語(標準ヘブライ語)で語り、人となった神はユダヤの民衆にアラム語で語り、そして地中海沿岸の国際都市ではパウロを通してギリシア語で語りました(ロマ5:18-19)。


翻訳聖書を通して

 以上のように、聖書の中だけをみても、神は人に分かる言葉で愛と救いを語っていたことが分かります。そして、もちろん、その後の教会の歴史においても、神は人に分かる言葉で語ってきました。それが翻訳聖書です。


 地中海沿岸の初代教会の人々の共通語は、ギリシア語でしたから、彼らはユダヤ人がギリシア語に訳した旧約聖書(以降「七十人訳聖書」)を聖書として用いました(当時新約聖書はまだ形になっていませんでした)。その後、聖書は、東方ではシリア語、コプト語、アルメニア語、エチオピア語に翻訳されました。西方では、古ラテン語やゴート語などへ訳されましたが、ラテン語訳が中世にかけて唯一の聖書となっていきます。

 しかし、14世紀になると、ウィクリフが英語に訳すことになります。宗教改革前夜と言えるこの時期から、現地語への翻訳のスピードに変化が見られます。15世紀以降の400年間は、100年につき、平均19言語に聖書が訳されていきます。19世紀になりますと、リバイバルと、それに後押しされた世界宣教の熱心さのゆえに、一世紀の間に446言語にもなり、20世紀には驚くべきことに1778言語にも訳されます。過去200年は聖書翻訳の世紀と呼ぶことができるかもしれません。

 21世紀に入り、世界に160ある聖書協会やウィクリフ聖書翻訳協会などの聖書翻訳の団体が世界的に協力して、ますます聖書翻訳が加速しています。その計画によると、あと、数十年で、ほとんどの人が、自分たちの分かる言葉で聖書の一部に触れることができる時代が来ようとしています。


翻訳聖書を用いて

 神は、このように翻訳聖書を用いて人を救いに導いてきました。

 私が日本聖書協会で働いていた頃のことです。ある地方在住の女性が聖書協会に電話をかけてきてこうおっしゃいました。「私は30年前に難病を患い、滅多に家から出られなくなってしまった。その間、新共同訳を読んできているが、洗礼を受けなければならないようだ。家に来てくれる牧師を紹介してほしい」という内容でした。それから、年に二回ほど必ず電話がかかってくるようになりました。お話を聞きますと、自宅で聖書を読むだけで、しっかりと正確な信仰を持っていることが分かりました。そしてこうおっしゃいました。「ヘブライ語とギリシア語だったら私には理解できない。聖書協会が、私に分かる日本語に訳してくれたから、イエス様に出会えた。イエス様がおられたから、この30年、生きてくることができた。感謝する。」

 愛の神は、今に至るまで翻訳聖書を通して、キリストを指し示し、人を救いに導いておられるのです。


II. 聖書の霊感

 愛の神が人に分かる言葉で語り、キリストを指し示してきたことは、第二テモテ3:14-17に示されていると私は考えています。


14 けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がだれから学んだかを知っており、15 また、自分が幼いころから聖書(ヒエラ・グランマタ)に親しんできたことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。

16 聖書(グラフェー)はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。17 神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。


この箇所から、私が個人的に学び、また、思い巡らしていることを五点お分ちします。明らかな誤解や間違いがありましたら、ぜひ、お教えいただきますようお願いします。


1. 「聖書」とは?

 第一。ここでいう聖書は、何を指したのでしょうか。

 プロテスタントである私は、神の霊感による聖書は、翻訳聖書ではなく、原語で書かれたヘブライ語の39巻、ギリシア語の27巻のみだと教えられてきました。


 しかし、この箇所で聖書と言ったとき、新約聖書が形作られる前の時期ですから、新約の27巻は含まれません

 では、それはヘブライ語の39巻を指したのでしょうか。それも違います。ユダヤ人がヘブライ語の39巻を正典としたのは、2世紀以降と言われ、その背景にはキリスト教会への反動もあったようです。

 テモテが幼い頃から親しんできた聖書(ヒエラ・グランマタ)は、ユダヤ人の子弟教育の慣例でヘブライ語聖書を指すという意見が多いようです。ただし、当時は、ユダヤ教内で正典が確立していなかったので、ヒエラ・グランマタといったとき、トーラー(モーセ五書)と預言者を中心にある程度の数の諸書が加わったものだったことでしょう。


 16節のグラフェーはどうでしょう。パウロがグラフェー、つまり聖書はこう語るといって自身の書簡で引用しているのは、七十人訳聖書や、それに類するギリシア語旧約聖書です。あるいは、パウロが記憶していたヘブライ語の聖句の翻訳や要約であったこともあるでしょう。どちらにしても、パウロが言うグラフェーはヘブライ語から翻訳されたギリシア語のものです。

 テモテはどうでしょう。テモテが少年期に触れた聖書はヘブライ語聖書だったかもしれませんが、異邦人が多く加わった教会での説教や牧会でテモテが使っていたのは、ギリシア語聖書だったことでしょう。注解者の中には、このグラフェーの中には、流布し始めていたであろうイエス伝の一部や、パウロなどの手紙の一部を含むかもしれないと言う人もいます。しかし、そうであっても、グラフェーは、第一義的には、ユダヤ人がギリシア語に訳した旧約聖書を指していました。そして、初期のキリスト教会も、七十人訳ギリシア語聖書を自らの旧約聖書として使用していたのです


 当然ながら七十人訳聖書には、66巻以外の書、つまり「トビト記」や「シラ書」など、新共同訳や聖書協会共同訳の続編の中に収められた多くの書が含まれていました。しかも、七十人訳聖書には、さまざまな誤訳も含まれていました。その上で、そのような翻訳聖書を、パウロは「神の霊感による」と述べたのです。

 

2. 霊感の目的

 第二。では、パウロが「神の霊感による(セオプネウストス)」と言ったとき、何を意味したのでしょう。神学用語となっている「霊感」という言葉は、新約聖書でここだけに出現する「セオプネウストス」というギリシア語に由来すると思います。すなわち、3:14-17は、聖書の霊感論の中心となるべき聖書箇所と言えます。


 私はプロテスタントの中でも、米国系の福音派で育ちました。そのため、私が触れてきた聖書論・霊感論の論議の中心は、聖書に誤りがあるかないか、というものでした。では、この箇所は、「誤りのある、なし」を述べているのでしょうか。

 このギリシア語は直訳すると「神が息を吹きかけた」、「神の霊による」となります。直訳するとこうなります。


キリスト・イエスへの信仰を通して救いに至る知恵を与えることができる書物、聖書はすべて神の霊によるもので、有益です、

人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために。


 この箇所では、神の霊は、聖書を用いて何をするのか、という目的が語られています。牧師テモテは、エペソ教会を脅かす誤った信仰と生活の教えに直面していました。パウロはそのようなテモテに、正しい信仰と生活にとどまりなさい、そのために聖書を用いなさいと勧めています。なぜなら、彼らは、第一テモテ4:1にあるように「悪霊の教え」を教えているのだが、聖書こそ、それがヘブライ語であっても翻訳した聖書であっても、神がご自身の霊によってもたらしたものなので、キリストへの正しい信仰と、神に喜ばれる正しい生活へ導くからなのだ、と言うのです。つまり、パウロが語る聖書の霊感論は、神から来ているという基盤に立って、「正しい信仰と生活に導く」という「目的」あるいは機能を述べています。ですからこの箇所での「霊感」とは、霊感による聖書に「誤りがあるかないか」という「状態」を指しているのではなく、聖書を用いてご聖霊がなす「働き」に重点がある言葉とも言えるでしょう。


3. 聖霊が主体

 ですから、ここでは聖霊が主体であることが第三の点です。「聖書が神の霊によるもの」というならば、神の霊は、聖書の執筆・編集・正典化・本文批評と原典釈義を含む翻訳、など、今、目の前にある翻訳聖書が生成されてきた過去の歴史を何らかの形で導いてきたと考えられます。では、そのような翻訳聖書自体が自動的に上記の目的を果たすのか、というとそうではなく、聖霊が、聖書を用いて目的を果たすのではないでしょうか。パウロが言うように、聖書は「御霊の剣」(エぺ6:17)だからです。神の霊、キリストの霊こそが、翻訳聖書を生み出しただけでなく、それを用いる主体です。


4. 正典化という知恵

 第四。重訳(翻訳文をさらにまた別の言語に翻訳すること)を重ねると、次第に訳文はあらぬ方向に向かいます。すると、使徒たちが伝えた教えが、歪んでいく可能性が出てきます。

 新約聖書に関して教会は、数百年という長い時間と論議の末、使徒たちが伝えた教えと基本的に一致すると思われる文書群27巻を公認の書と定めました(正典化)。それは、教えが誤った方向に向かわないために与えられた知恵だったと思います。このプロセスにも、ご聖霊が何らかの形で働いたことでしょう。その上で、教会は、本文批評と原典釈義を積み重ねて、より良い翻訳聖書を目指してきました。それは教会に与えられた使命なのだと思います。

 しかし、そのような知的な作業を経た翻訳聖書が自動的に人をキリストに導き、信徒を成長させるのではありません。聖書はあくまでも、その二つの目的を果たすためにご聖霊が用いる「有益な」ツール、あるいは手段なのです。


5. 「キリスト・イエスに対する信仰」

 最後の点です。


キリスト・イエスに対する信仰

 前述のように、テモテへの手紙が書かれた時点では現在の新約聖書は存在しておらず、聖書と言った場合、主に旧約聖書を指していました。そして、パウロによれば、その旧約聖書は、「キリスト・イエスに対する信仰」(2テモテ3:15)を与えることができ、人を訓練するために有益でした。つまり、最初期の教会は、使徒たちが教えたこと、つまり、使徒たちの解釈や視点に基づいて旧約聖書を読み、それによって人々は救いに至り、正しい行いを実践できるようになったということになります。


 使徒たちの教えの核となっているのは、第二テモテ3:15にある通り「キリスト・イエスに対する信仰〔あるいは、「キリスト・イエスにある真実」ガラ3:26共同訳参照〕でした。この「キリスト」というのは、単なる称号でも、「救い主」の言い換えでもありません。これはヘブライ語の「メシア」のギリシア語訳です。つまり、「旧約聖書が預言したメシアであるイエスに対する信仰〔イエスの真実〕」です。実際、「使徒の働き」には次のように記されています。


・(使徒たちは)毎日、宮や家々でイエスがキリストであると教え、宣べ伝えることをやめなかった。(5:42)

・サウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。(9:22)

・「…私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです」と説明し、また論証した。(17:3)

・パウロはみことばを語ることに専念し、イエスがキリストであることをユダヤ人たちに証しした。(18:5)

・(アポロは)聖書によってイエスがキリストであることを証明し、人々の前で力強くユダヤ人たちを論破したからである。(18:28)


使徒たちや初期の弟子たちは、地中海沿岸の諸都市に住んでいたユダヤ人たちにまず伝道しました。ユダヤ教の会堂に集っていた「神をおそれる異邦人たち」も同様に旧約聖書に親しみ、メシアの意味を知っていたことでしょう。ですから、ユダヤ人や神をおそれる異邦人(例:使13:16)に対してはキリスト(メシア)がどのような存在なのかをゼロから説明する必要はありませんでした。ですから使徒たちは、イエスこそが彼らが待望していたメシアなのだと述べたのです。


 私はこの点は重要だと考えています。なぜなら、旧約聖書のメシア像は、「人々の罪を赦し、魂だけを天に引き上げる救い主」ではなかったからです(私たちがこのように考えるに至った経緯はエッセイ「『天から来て、天に帰る』のルーツ」参照)。そうではありません。旧約聖書の救いの約束は、「天地万物を造られた神ご自身が世界の王となり、世界を正義と愛、平和と豊さで満たす」というものでした。そしてその救いの約束を実現するのが、イスラエルの特別な王「メシア(ギリシア語でキリスト)」だったからです(エッセイ「福音の全体像」参照)。ですから、一世紀のユダヤ人や神をおそれる異邦人が「イエスこそキリスト」と聞いた時にイメージしたこの内容を、私たちは十分に確認する必要があるのです。

 

使徒たちの教えと新約聖書

 年月が経ち、使徒たちやその直弟子たちが亡くなり、彼らの教えを直接受けることができる時代が過ぎていきました。生き証人がいなくなる中で、「イエスこそが旧約聖書の預言してきたメシア(キリスト)である」というメッセージを核とする「使徒たちの教え」は、「信仰の基準(regula fidei)」とも呼ばれるようになり大切にされていきます。それは、古ローマ信条や最初期の根本信条に表され、使徒信条に受け継がれていきます。同時期に、使徒たちの教えが述べられている書、つまり「信仰の基準」に合致する書が次第に選ばれて新約聖書となっていきます。シンプルであった「使徒たちの教え」や「信仰の基準」が、今や複雑で大著である27巻となりました。


様々な教理の核となるべき教え

 私たちは長い時間をかけて、聖書全体から様々な教理を導き出してきました。それら全ての教理は本来、「イエスこそメシアである」というメッセージを核としているはずですし、そのメッセージに有機的に結びついているはずだと、以上のことから私は考えています。このことは、樹木にたとえて言えば、旧約聖書の救いの約束が「根」、その約束を成就するメシアであるイエスが「幹」、様々な教理や解釈は、その幹から生まれてきた「枝」といえるかもしれません。

 

誤りと見える箇所や解釈の違いに触れて

 現在、聖書の中には誤りや矛盾に見える箇所、また、他の宗教の教えが混入しているように見える箇所がわずかですが存在します。また、教派によって解釈が分かれたままになっている教えもあります。そのような現状に触れる時、聖書の信頼性が揺らぐように感じて不安に思ってしまう方もいらっしゃるかもしれません。

 その時、私たちはどのように考えたら良いのでしょう。私は、第二テモテ3:14-17を思い起こすことが一つの助けになると考えています。


 1. 中心と周辺

 そのような難しい箇所や解釈の分かれる箇所があったとしても、それは、周辺(枝)のことだと言えるでしょう。「メシアであるイエスへの信仰」という使徒の教えの中心(幹)に関しては、ご聖霊は聖書を用いて2000年間、世界中で目的を果たしてきました。つまり、「聖書が神の霊による」ということは一つも揺らいではいないのです


 2. 解釈のパラダイムと解釈

 難しい箇所や解釈の分かれる箇所に関しては、引き続き研究し、違う立場の方々が話し合い、論議していく必要があります。そのような努力やプロセスを通じて、問題の箇所が解明され、意見の違った二者が一致に至り、あるいは解釈に幅があることを互いに認め合うようになったことが多くありました。

 

 ではそのような研究や論議の際、何を判断の基準にするのでしょうか。それが非常に大切だと思います。やはりそれは、上述のように旧約聖書が約束してきたメシア(キリスト)はイエスである」という、使徒たちの教えの中心なのではないでしょうか。「イエスは魂を天に送る救い主」というのを「幹」(解釈のパラダイム)とするのか、それとも「神がイエスにおいて全世界の王となり、世界を正義と平和で満たす(神の国)」というのを「幹」(解釈のパラダイム)とするのかでは、生え出でる「枝」の形(教理や解釈)が違ってくるからです。当然ながら、枝の形が違えば、葉や実(実践、正しい生活)の形も違ってきます。


III. 結論

 過去2000年間、愛の神は、聖霊により、翻訳聖書を用いて世界中の人々にメシアであるイエスを指し示して救いに導き、信徒を正しい生活に向かわせてきました。そのような聖霊の働きを、聖書の「霊感」と語っているのが、第二テモテ3:14-17(そしてロマ5:18-19)だと私は考えています。聖書の霊感論をこのように、「翻訳聖書を用いるご聖霊の働き」という視点から考えてみるのはいかがでしょうか。

 栄光と誉れが、聖書を用いる三位一体の神に捧げられますように。

 





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