はじめに
義認・聖化・栄化という神学用語があります。それは、キリスト教の救いを過去、現在、未来という時間軸で表すときに使われる言葉です。
1. 義認とは、主イエスを信じて罪赦され、義、つまり正しい者と認められることです。これは、洗礼式などの機会に、「救いの証」の中でよく聞くことです。その方にとっては過去に起こったことです。
2. 聖化とは、聖霊によってキリスト者として成長し、聖くされていくこと。これは、現在進行形です。
3. 栄化とは、死後に天国に行って、全く罪のない、栄光を受ける者とされること。これは将来のことです。
キリスト教の救いは、いままでこのように考えられてきました。過去の義認、現在の聖化、将来の栄化です。それはすべて、一人の人が個人的に天国に行くことに焦点が当たっていました。ちょうどジョン・バニヤンの「天路歴程」のストーリーのようです。
ところが、このようなキリスト教の救いも、聖書自体をゆっくり見直すと、「おや、少し違うかもしれない」と思えてきます。このエッセイでは、ロマ書8章の「神の像」という言葉に注目しつつ、義認・聖化・栄化というキリスト教の救いを捉え直してみたいと思います。
I 義認
まず義認について考えましょう。義認に関しては、アブラハムへの約束が大切となってきます。
A アブラハムへの約束の意図:世界の相続人となること
神はアブラハムにカナンの地を与えると約束しました(創12:1-3,7)。ですから、イスラエル人にとってその地を代々受け継ぐこと、相続することは、非常に大切なことになりました。[1] しかし、実は、この約束には神の壮大な意図がありました。それを明らかにしたのはユダヤ人、しかもパリサイ派であったパウロです。パウロはロマ書4章13節でこう書いています。
世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によってであったからです。(ロマ4:13)
ロマ書4章によると、イエスを信じた人々は、信仰によって義と認められて、異邦人であってもアブラハムの子孫、真のイスラエルとなります。それは、「世界の相続人」となるためだとパウロは語ります。この点をもう少し聖書から確認していきましょう。
B 信仰義認の目的:世界の相続人となること1(ガラテヤ3:26-4:7)
まずガラテヤ書を見ます。ガラテヤ書によれば信仰義認の目的は何でしょうか。ガラテヤ3:26から4:7でこうパウロは語ります。一部を引用します。
あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。…あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。…あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。
キリスト者は信仰によって義と認められて神の子とされた者である、だから、私たちは相続人なのだとパウロはガラテヤ書で語ります。
C 信仰義認の目的:世界の相続人となること2(ローマ8:14-17)
パウロはロマ書でも同じことを語っています。ロマ書8章14節から17節です。
神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。
私たちは信仰によって聖霊を受け、神の子とされた。ならば相続人でもあるのだ、とパウロは述べます。では何を相続するのでしょうか。それはもちろんロマ書4:13で見たようにカナンの地を含む全世界です[2]。
パウロは信仰によって受け継ぐものとして色々な表現をしています。たとえば、「御国を受け継ぐ」(使20:32、エペ1:14、5:5、コロ3:24、ヤコ2:5)、「神の国を相続する」(1コリ6:9、ガラ5:21)、「永遠のいのちを受け継ぐ」(ルカ18:18)などです。これはもちろん別々のことを述べているのではありません。完成された地上世界全体を受け継ぐという意味で同じなのです。主イエスにとっても、パウロにとっても、神の国は、天上の世界ではありません。旧約聖書が約束した救い、すなわち、神が王として治める地上世界を指していました。マタイで使われる「天の御国」も同じです。パウロはロマ書4:13では世界の相続人と非常にわかりやすく表現していますが、すべて同じなのです。
D まとめ
私たちの多くは、宗教改革以降、次のように理解してきました。
私たちは、行いではなく信仰によって義と認められる。その目的は、罪が赦されて魂が天国に行くことである。
ところが、パウロは繰り返し語ります。信仰義認の目的は、地上世界全体を相続することなのだ、と。信仰義認の目指す方向が「天と地」ほど違って聞こえますね!!
II 栄化
A 世界の相続人は被造世界を自由にする(ロマ8:18-21)
さて、では、信仰義認の目的である「世界の相続人になる」とはどのような意味なのでしょう。パウロはそれをロマ書8:18-21で明らかにします。
今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。
私たちの周りの目に見える被造世界、森も、川も、海も、動物たちも、すべてが、今、アダムとエバの叛逆のゆえに神の呪いの下に置かれて苦しんでいます。それだけではありません。現在は、ますます、人間の貪欲と自己中心の故に苦しんでいます。ですから、被造世界が待ち望んでいるのは、19節にあるように、神の子どもとされたキリスト者が世の終わりに現れることです。その時何が起こるのでしょう。それは、21節を見ればわかります。
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。
被造世界は、キリスト者によって、現在の滅びの束縛から自由になる、とパウロは語ります。被造世界の救いの希望はキリスト者にあるというのです。
B 正しく治める栄光ある務めによって自由にする
では、なぜ、そしてどのように、終末におけるキリスト者の現れとその栄光が被造世界に自由を与えるのでしょう。
今までのように、義認・聖化・栄化をキリスト者の一個人が清められて完成するものとして捉えていては、この箇所を理解することはできません(ピリ3:21を含む)。また、キリスト者の栄化は天国で完成すると捉えると、この箇所はますます理解不可能となります。一個人が天国で完成することは、被造世界とは直接関係がないからです。
この箇所を理解する鍵は詩篇にあります。
Word Biblical Commentaryのロマ書注解を書いたジェームズ・ダンは、8章のこの箇所の注解で「栄光」を解説し、詩篇8:5-8を引用しています[2]。
あなたは 人を御使いよりわずかに欠けがあるものとしこれに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。あなたの御手のわざを人に治めさせ万物を彼の足の下に置かれました。羊も牛もすべて また野の獣も空の鳥海の魚 海路を通うものも。
つまり、「ロマ書8章の栄光は、世界を治める神の像としての栄光だ」とダンは語ります(「神の像」の詳細については、エッセイ『神の像』参照)。五書研究家として著名なゴードン・ウェナムも詩篇8篇のこの箇所は神の像について語っている、とやはりWord Biblical Commentaryの創世記の注解で記しています[3]。
さて、私たち人類は罪の故に、この「全地の王・神の像」としての栄光ある務めを正しく果たせませんでした。そのために、被造世界が苦しんでいるのです。
ここまで来ると、なぜ被造世界が神の子の表れを待っているのかという理由がはっきりします。世の終わりに救いが完成した暁には、キリスト者は地上に復活し、王として被造世界を治めるようになります。それは黙示録22:5に記されています。
その時、キリスト者は王としての務めを正しく果たすことになり、その結果、被造世界は滅びから解放されて自由になるのだ、被造世界はその自由を期待して待ち望んでいるのだ、というのです。
これがパウロの語る栄化です。栄光ある王の務めの回復です。
III 聖化
今まで、義認と栄化を見てきました。義認の目的は、信仰により、私たちが神の子どもとなって全世界を正しく治める王となることでした。栄化は、その栄光ある王の務めが終末に完成することでした。
では、聖化はどうでしょう。
A 聖化はうめきと苦しみ(8:22-27)
ロマ書8章の次の部分、22節から27節では、今現在の歩みが描かれています。一言で言えば、被造物もキリスト者も苦しみうめいている。贖いの完成を望んで、産みの苦しみをしている。ご聖霊も、言葉にならないうめきをもってとりなしてくださっている、と書かれています。そして、これは、ロマ書8章1節から13節の聖霊による聖化論の延長です。
B 聖化は神の像の回復(2コリ3:18)
ここで、パウロが聖化について、第二コリント3:18で述べていることを見てみましょう。
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
「主と同じかたち」とありますが、この「かたち」は、ギリシア語で「エイコン」、それは、七十人訳ギリシア語聖書の創世紀1:26-28で神の像の「像」と訳された言葉と同じです。つまり、ご聖霊の働きは、私たちを本来の神の像、すなわち全地を治める正しい王へと変えていくことなのだ、これが聖化なのだ、とパウロは言うのです。
C 聖化はうめき
しかし、同時にそれは弱い私たちにとっては厳しい戦いであり、うめきでしかありません。そのことは被造世界もご聖霊も理解して、共にうめいている、というのです。これがロマ書8章の聖化論です。
D 終末論的アダムであるキリスト
では次にロマ書8章28-30節を見ましょう。28節は大変興味深い節で別に取り上げています(エッセイ「ともに働いて益とする」参照)。本エッセイでは、そこを飛ばして29、30節を見てみましょう。
神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。
この「御子のかたち」の「かたち」は、先ほどの2コリント3:18の「かたち」と同じエイコンです。
先ほど述べたダンはこの節の注解で、次のように述べています。
パウロは、キリストを終末論的アダムとして見ている。すなわち、復活のキリストは、栄光と誉れの冠を戴き、本来アダムに与えられていた万物を治める権威が与えられているのである(詩8:4-6、1コリ15:20-27参照)。[4]
2,000年前、御子が罪のない人類として来て下さいました。罪のない神の像、世界を正しく治める王として来られたのです。第二のアダム、終末論的アダムです。復活し、昇天した後は、主は実際に、具体的に王として世界を正しく治め始めて今に至っています。
E キリスト者の聖化=神の像の回復
そして、私たちキリスト者は、その御子の像に聖霊によって回復されつつあります。
つまり、私たちと被造世界の救いは単に未来のことではないのです。私たちはその栄光ある務めを先取りしている、あるいは回復しつつあると言えます。それが聖化です。
私たちは、この世界を正しく治めようと聖霊によりたのみ、聖霊のとりなしを受けながら、弱いながらも奮闘しています。私たちは、罪のない神の像であるキリストの体です。私たちは現在、キリストの手足としてこの被造世界全体を人間による罪の影響から解放しようと働いている、とも言えるでしょう。
しかし、その戦いは大きく厳しいものです。そこで現在の私たちの歩みには苦しみが伴います。しかし、その苦しみは、将来啓示される栄光に比べれば、取るに足らないとパウロは語ります。
IV まとめ
まとめます。私たちは「義認・聖化・栄化」を非常に個人的なものと捉えてきました。個人が神に似たものとなりそれが個人的に完成することだと。あるいは、それは天で完成するものとして捉えてきたと思います。しかし、パウロによれば、義認も、聖化も、栄化も世界の相続人となること、つまり正しい神の像の回復を指しています。
私たちは世界の相続人となるために信仰によって義と認められました。世界を正しく治めるために聖化されています。そして世の終わりには、キリストと共に世界を正しく治めるという栄光を受けるのです。
このエッセイでは、ロマ書8章を中心に、「世界の相続人」、「神の像」という二つの言葉をキーワードとして、「義認・聖化・栄化」を捉えなおしてみました。もし、私のこの捉え方が正しいものならば、キリスト者である私たちの今、ここにおける生き方や倫理に影響が出てきます。なぜなら、もしキリスト教の救いである義認・聖化・栄化が、神の像の回復と完成であるならば、創造世界を託された者として、目に見えるこの世界を慈しみ、仕え、変革していく歩みが求められてくるからです。
このエッセイをお読みの皆さんも、今までの考えをちょっと脇に置いて、「義認・聖化・栄化」について思い巡らし始めていただければ幸いです。
追記:
キリスト教の救いが天国へ行くことに変化していった経緯に興味のある方は以下のエッセイをご覧ください。『「天から来て天に帰る」のルーツ』、『旧約聖書も「人は天に帰る」?』
注)
[1]「相続する」、「受け継ぐ」、と訳されたヘブル語の「ナハル」とその名詞「ナハラー」は、相続財産、相続地、相続人を表しています。それは、旧約聖書で280回以上も出現する最頻出単語の一つで、旧約神学の重要なテーマの一つです。新共同訳では「嗣業」と訳されました。七十人訳聖書ではギリシア語のケレーロノモスとその類語が当てられ、それは新約聖書でも受け継がれています。
[2] James G. D. Dunn、Romans 1-8, vol. 38A, Word Biblical Commentary (Thomas Nelson, Inc., 2015).
[3 Gordon J. Wenham, Genesis 1-15, vol. 23A, Word Biblical Commentary (Thomas Nelson Inc, 1987), 30-31.
[4] 前掲書、p.495.
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