(ダンテの「神曲、天国編」につけたギュスターヴ・ドレの挿絵「チェレステの薔薇」)
初めに
プラトンは、「人は死後に天に上り神と一体となる。それこそ人の最高の幸福でありまた最終目的である」という思想を語りました。その流れを汲む紀元3世紀のプロティノスは、「神の直観(直視)と神との合一」を最高の目標にあげています。その影響を強く受けたアウグスティヌスは、新天新地の完成に触れながらも、最終的には「人は神だけを見つめ、神が全てとなる」と述べて、新天新地は実質的にアウグスティヌスの意識から薄れていきました。その後、この神秘主義的思想は「至福直観」と呼ばれるようになります(歴史的経緯に関しては、エッセイ「『天から来て天に帰る』のルーツ」参照)。
アウグスティヌスがその思想を聖書から裏付けるために使用した聖書箇所が、「顔と顔を合わせて見る」(1コリ13:12)、そして「神が、すべてにおいてすべてとなられる」(1コリ15:28)です。本エッセイでは、密接な関係にある「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです」(ロマ11:36)も取り上げます。
果たしてこれらの箇所は、全被造世界が神の後ろに隠れるように、あるいは神の内側に吸収されるようにして、人の意識から薄れていくことの根拠になるのでしょうか。
まず、聖書全体の流れとパウロの理解を確認してみましょう。
I 聖書全体の流れとパウロの理解
天地創造から始まり、新天新地の描写で終わる聖書全体のストーリーは、いかに創造主が被造世界を愛し、それを罪の影響から解放して完成に導こうとしているかを述べている物語です。父なる神はその救いを御子とご聖霊によって成し遂げつつあります(「福音の深さ、広さを(3)」参照)。
パウロも次のように語ります。
神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。(コロ1:19-20)
御子が十字架にかかったのは、私たちの罪の赦しのためだけではなく、神と万物の和解を成し遂げるためでした。人間の罪のゆえに呪われた被造世界は、御子の十字架の血によって和解させられました。そのため、終末における自分達の救いの完成を待ち望んでいます。
被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。(ロマ8:19-21)
このように被造世界は神が愛を込めて造られた存在であるだけでなく、御子によって呪いから解放されました。その被造世界自体が自らの救いの完成を待ち望んでいます。その被造世界の存在が消えていくというのは、聖書全体の教えから導くことはできません。
では、アウグスティヌスが引用した聖書箇所はどういう意味なのでしょう。
II 「顔と顔を合わせて見る」(1コリ13:12)
A 執筆の背景と目的
パウロはコリント教会が直面していた諸問題に応えようとコリント人への手紙第一を書きました。中でも13章は、教会の秩序の乱れ(11-14章)という問題を扱う中で、愛を説いています。特に知識や預言を誇る人、異言や癒しを誇る人がコリント教会の一致を壊し、礼拝の秩序を乱していました。パウロはその問題に対処するために13章を書きました。
B 13章8-13節
その章の愛の賛歌と言われる箇所の直後で、パウロは次のように記しています。
愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。
私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。
今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。(13:8-13)
1 交差構造
パウロはこの箇所で、交差構造を使っているように見えます。愛の普遍性と優位性が最初と終わりにきて、そのすぐ内側に、「知ることの部分性と完全性の対比」が置かれています。それに挟まれて中心部分にあるのが二つの比喩です。
2 二つの比喩
この二つの比喩は、「部分性と完全性」の対比を伝えるためのものです。第一は、大人になると幼子のことはやめるという比喩(13:11)、次に、今は鏡にぼんやり映るものを見ているに過ぎないが、そのときには顔と顔を合わせて見るようにはっきりと見ることになる、という比喩です(13:12)。「顔と顔を合わせて見る」という文言はゴードン・フィーによると直接的なコミュニケーションを意味する聖書の慣用句です。例として、ヤコブが「顔と顔を合わせて神を見た」(創32:30)をあげています。また神がモーセとは「口と口で語り」(民12:8)を参考箇所としてあげています[2]。
この二つの比喩を用いて、将来の完全な啓示に比べて、現在の預言、異言、知識が一時的、部分的であると説明し、教会内の愛による一致と礼拝の秩序の回復を試みています。
3 考察
ここで重要な点は、二つあると思います。第一は、「顔と顔」は「鏡」と対比されて使われていて、比喩の一部であること。第二は、その比喩の目的は、現在の預言、異言、知識の相対化です。
「顔と顔を合わせて見る」という言葉は、教会の問題を解決するための比喩であり、その一言を取り上げて、「神の直観」という一つの神学の根拠とするのは行き過ぎのように思えます。ただし、この慣用句が示唆しているように、刷新された地上では、私たちは天から降りてきた父と御子と直接見(まみ)えるでしょう。ただし、それは、新プラトン主義的な、神秘的合一体験ではありません。
B より広い文脈
神との親しい交流が、神秘的な合一体験とは違うことは、聖書全体から見ることができるでしょう。
1 エデンの園
神との親しい交流の原型は、アダムとエバが罪を犯す前のエデンの園です。二人は園の中で、神と親しく語り合っていました。つまり、二人は「被造世界の中で、被造世界と共に、被造世界に仕えながら」、神と親しく語りあっていたのです。神だけを見つめ、被造世界が意識から消えるようなものではありませんでした。
2 詩篇
詩篇の記者も148編で、被造世界の中で、被造世界と共に主を賛美しています。
日よ 月よ 主をほめたたえよ。主をほめたたえよ すべての輝く星よ。 天の天よ 主をほめたたえよ。 天の上にある水よ。…
地において主をほめたたえよ。 海の巨獣よ すべての淵よ。 火よ 雹よ 雪よ 煙よ。 みことばを行う激しい風よ。 山々よ すべての丘よ。 実のなる木よ すべての杉よ。 獣よ すべての家畜よ。這うものよ 翼のある鳥よ。
3 黙示録
黙示録は象徴表現に満ちた黙示文学と言われるジャンルに属すため、基本的には文字通りに解釈できない書です。しかし、それでも、その象徴から理解できるメッセージがあります。黙示録21章以降に描かれている新しい地上では、諸国の民と地の王たちがいます。人々は、諸国の民の栄光と誉れを都に携えてきます。地上には川があり、実がみのる木があります。そして神のしもべたちは、その地上を世々限りなく王として治める、とあります。そこに描かれているのは、神と子羊を中心とした地上世界における神との親しい交流、しかも世々限りなく続く交流です。それは、被造世界が意識から消えて成り立つような、神との神秘的な合一体験とは程遠いものなのです。
C 今の私たちに求められていること
今、私たちに求められているのは、終末を思い描いて終始することではありません。上記のような神との交流を目指すことです。なぜなら、贖われた私たちは、罪を犯す前のエデンの園のあり方を回復しようとするからです。また、私たちは、新しい創造(ガラ6:15)と言われています。つまり、私たちは完成した将来の地上のあり方を先取りして今を生きるよう求められています。
ですから、私たちキリスト者が今ここで求めるのは、神との神秘的一体感ではなく、「被造世界の中で、被造世界と共に、被造世界に仕えながら」神との交流を深めることです。このような神との交流が凝縮された祈りが「主の祈り」です(N.T.ライト『イエスと主の祈り』参照)。そのような深い交流と賛美は、今は確かに不完全ですが、再臨のときには完全なものにされることでしょう。
III 「神が、すべてにおいてすべてとなられる」(1コリ15:28)
A アウグスティヌスの解釈
アウグスティヌスにとってこの言葉は、神ご自身が
生命、健康、食物、富、栄光、栄誉、平和、その他あらゆる善きものとなる(「神の国」22:30)
という意味です。そしてこうも言います。
神はわたしたちの願い求めるものの終局である。(同22:30) 神自身を見、神によって満たされるであろう。(同22:30)
神ご自身を見るときに、神ご自身が被造世界のすべてとなり、神ご自身によってすべてが満たされていくので、被造世界は神の向こう側に隠れるように、あるいは神の内側に包み込まれるようにして、アウグスティヌスの意識から消えていきます。この有り様は、新プラトン主義の「神の直観と神との合一」という神秘体験となんら変わりません。アウグスティヌスの新天新地は、実際は天も地もない、神だけの世界であり、プラトン主義の天国と変わらない世界となります。
では、この聖書の言葉は、どのような意味なのでしょうか。
B 直接の文脈
コリント教会が抱えていた大きな問題の一つが、教会の中にキリストの復活を認めない人がいたことです。それに対し、パウロは15章でキリストの復活を論証していきます。その中の論議の一つに該当箇所が含まれています。
(21) 死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。 (22) アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。 (23) しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。 (24)
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。(25) すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。 (26) 最後の敵として滅ぼされるのは、死です。 (27) 「神は万物をその方の足の下に従わせた」のです。
しかし、万物が従わせられたと言うとき、そこには万物をキリストに従わせた方が含まれていないことは明らかです。(28) そして、万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。
終わりのとき、キリストはご自身が万物を従わせてきた王権を父なる神に返します。そうして万物が神に従うようになります。復活という文脈上注目すべきは、死が滅ぼされることです。そして御子自身も神に従います。そうして、神がすべてにおいてすべてとなります。
つまり、この箇所は、文脈から判断すると、御子を含めた万物が、死そのものも、父なる神ご自身に従うことになる、と言っています。これは、アウグスティヌスが言うような、神が神秘的に「生命、健康、食物、富、栄光、栄誉、平和、その他あらゆる善きものとなる」ことでもなく、神が私たちの求めるものの「終局」になることでもありません。神の最終的な王権、主権性を語っています。
C 「神が、すべてにおいてすべてとなられる」
では、「神が、すべてにおいてすべてとなられる」と言う最後の文言自体はどうでしょうか。
ゴードン・フィーは次のように注解しています。
最後の「すべてにおいてすべてとなられる」という言葉はパウロの独特な言い回しであり[1]、これは最後にパウロが確認していることから(54-57節)、あるいは、後のロマ書(11:36)の箇所の観点から理解されなければならない。いずれにしてもバッレトが語るように、その文言は形而学上ではなく、救済論的に理解すべきである。パウロがここで言おうとしているのは、ほぼ間違いなく、死者の復活の時、すなわち、キリストを通して贖われた者の最後の敵が従わされた時には、唯一無二の神が、あらゆる場で、あらゆる面で、最高の存在になるということである。パウロの観点では、この贖罪の完成には被造世界の全ての分野も含まれている(ロマ8:19-22、コロ1:15-20)。いかなるものも、キリストにある神の贖いの目的の外に存在しない。キリストの内に万物が最終的に「一つとされる」(エペ1:9-10)のである。従って、死が死ぬ時、宇宙の最後の傷が癒やされ、神のみが万物を治めることになるのである。(前掲書p.841)
フィッツマイヤーは、やはりバレットを引用して次のように述べます。
「この箇所はロマ書11:36の視点から理解されなければならない。…形而上学的でなく、救済論的に…ここで語られているのは、キリストと人類が、神に吸収されて独自の存在を失うことではなく、神のみが、全きいつくしみのうちに、比類ない主権を持っていることを指しているのである。」(バレット、第一コリント、p.361)。[3]
D まとめ
「神が、すべてにおいてすべてとなられる」。これは、「キリストと人類が、神に吸収されて独自の存在を失うこと」ではありません。キリストが再び来るときに、神の救いと主権が、ありとあらゆるものに及ぶことを語っているのです。
IV 「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ロマ11:36)
A 直近の文脈
パウロはロマ書9章から11章に至るまで、ユダヤ人の救いに関して論じてきました。そして、33-36節がその全てを受けて神の知恵と救いの素晴らしさのゆえに神を讃えています。該当の句はその最後の部分となっています。
B 「発する、成る、至る」
ジェームズ・ダンとダグラス・ムーによると、パウロがここで使っている「発する、成る、至る」という文言は、ストア派の定型句です。ヘレニストのユダヤ人たちはこの言葉を選んでヤハウェに使い、パウロもこの箇所だけでなく、他の箇所でも使っています(例1コリ8:6)[4]。この句だけ見ますと、「一者なる神から万物が発出し、万物は最後には一者なる神に吸収される」といったギリシア思想を連想します。しかし、もちろん創造主を信じるユダヤ人はそのような意味で使ったのではありません。パウロも同じです。ダンは次のように語って、この11章の注解を閉じています。
創造主としての神に対する人の反逆から始まった(1:18-25)論議において、(最後に来るものとして)創造主である神に対する賞賛以上にふさわしいものがあろうか。最後の分析における、イスラエル民族の選び、異邦人への福音宣教、救済史の全ての流れ、は、ただ、最も根本的な関係の側面でしかない。それは、神と被造世界との関係である。神のみに栄光がとわに!アーメン(前掲書p. 705)
ダグラス・ムーも次のように語って、この部分の注解を閉じています。
パウロは、(ここで)父なる神について語っており、その目的は、これらの節の中心テーマである神の独自性と主権性を強調することである。私たちが全宇宙における神の至高性を熟慮するとき、私たちの相応しい応答は何であろうか。パウロのような、頌栄(ではないだろうか。)前掲書p.762。
私たちも、被造世界の中で、被造世界と共に、被造世界に仕えながら、創造主・贖い主・主権者である神を讃えたいと思います。
V 終わりに
1世紀の都市在住のユダヤ人は、パウロも含めて、ギリシア思想の影響は少なからず受けていました。それは、新約聖書の様々な箇所に現れていると言えるでしょう。しかし、だからと言って、神が創造主であり贖い主、そして全宇宙の主権者であるという根本的な信仰まで揺らいだわけではありません。もちろん、最終的に人が神と合一し、被造世界が神に吸収されるといったギリシアの神秘思想に変化したのでもないのです。神は、罪によって歪んだ世界を、御子を通し、聖霊によって回復し、ついには完成するお方、天地創造の目的を完遂するお方です。そして、それゆえに、全被造世界の賛美を受けるにふさわしい方です。パウロは、その賛美をギリシア的な言い回しさえ使って現したのでした。
しかし、それだけではありません。パウロが手紙の読者に伝えようとしたのは実は単なる終末論の知識ではありません。パウロは絶えずキリスト者が具体的な生活の場面で、地上において、神と人を愛して生きていくことを手紙を通して語り続けていました。
今日という日に、私たちも、被造世界の中で、被造世界と共に、被造世界に仕え、そして神を賛美しつつ歩んでいきたいと思います。それは、罪を犯す前のエデンの園でのアダムらの歩みであり、また、将来新たにされる地上での歩みを先取りする歩みなのです。
[1] コロ3:11 (キリストに関し) 、特にエペ1:23参照。 [2] Gordon D. Fee, The First Epistle to the Corinthians, The New International Commentary of the New Testament (Eerdmans, 2014), p. 717. [3] Joseph A. Fitzmyer, First Corinthians, Anchor Bible Commentaries (Yale University, 2008), p.575. [4] James D. G. Dunn, Romans 9-16, Word Biblical Commentary (Thomas Nelson, 2014), p.704.並びに、Douglas J. Moo, The Letter to the Romans, International Commentary on the New Testament (,2018) p. 762.
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